カンテラ
それからも少女との逢瀬は続いた。
二日目は『人形の夢と目覚め』を。これは、エステン作曲の小品集『子供の情景』第四曲。お風呂の給湯器から鳴るメロディでお馴染みのクラシック曲だ。
三日目は『夜想曲Op.9-2』。これは、うっとりとしたメロディが特徴的で、ラストの余韻まで心に染みる、まさしく夜にぴったりの曲。
四日目は『スケルツォ第2番変ロ短調 Op. 31』で、冗談やユーモアなどを意味する軽快なテンポの曲。ノクターンと同じショパンの代表曲だが、なかなか今まで以上に難度が高く、私の腕前的には限界に近い。徐々に難度が高くなっているけれど、これも彼女の望みを叶える為。
「そろそろ、試す時が来たわね」
足繁くこの泉に通って、五日目の晩のこと。
彼女が試したい事と云うのは、ピアノの譜面台の端に置かれた西洋風のカンテラにある。灯火は絶えており、煤に曇った硝子と黒ずんだ金属が、長い年月を物語っていた。
「私は、いつでも大丈夫だよ」
一見、何の変哲もないカンテラ。だが、彼女によると、これは不思議な力を宿した特殊な“器”なのだという。
もっとも、この少女との出会いそのものが、夢現のような出来事なのだけれど。まさか、それ以上の“未体験”へ踏み込むことになろうとは。
胸の奥で小さな鼓動が高鳴る。私はゆっくりと息を整え、カンテラへ手のひらを翳した。
すると、ふんわりと身体が浮くような感覚に包まれる。柔らかな光の海を漂うような感覚。水中とも春風の中とも違う、不思議な浮遊感に身を任せる。音もなく、世界が遠ざかる。
気が付くと私は、黒縁の照明器具、その硝子の内側へと入り込んでいた。
「大成功ね! 居心地はどう?」
弾む声が、硝子越しに外側から響いた。
「まぁ、悪くは無いかな。ちょっと狭いけれど」
私の身体が目の前にある、ということは彼女の言う通り成功したのだろう。これは、俗に言うところの幽体離脱。
私は今、魂だけの存在となって四角いカンテラの中に収まっている。身体という重りを失った感覚は、思った以上に奇妙だった。重さも温度も曖昧で、ただ柔らかな光の中に浮かんでいるみたい。
傍から見れば、私の魂が灯火のように光っているはずだけれど……、一体何色をしているのだろうか。綺麗な色だと良いけれど。
「私の身体はどう? 具合悪くなったりしない?」
「全然、平気! むしろ、とっても居心地いいよ!」
どうやら、私の身体をお気に召していただけたようだ。少女は軽く肩を回し、腕を伸ばす。指先をぱたぱたと動かし、確かめるように掌を開いたり閉じたりする。その仕草はまるで、新しい楽器の調子を確かめる演奏家のようだった。
それから彼女は、楽しそうにスキップしながら泉の周囲を回り始めた。年甲斐もなくはしゃぐ大人なんて、あまりにも滑稽なので、辺りに人が居なくて良かったと心底胸を撫で下ろす。
「じゃあ、そろそろ弾きますか!」
彼女が私の身体を借りてまで弾いてみたいと望んだ曲、それは……。
空気が張り詰める中、私はただ一人の観客として、彼女の演奏に耳を澄ませる。
鍵盤の上を跳ねる手。高音域が軽やかに鳴り響く。その音色はまるで、小さな鐘が鳴り響いているかのような物悲しい空気を纏い、辺りの空気を震わせる。
超絶技巧、高難度のクラシック曲。その名も『ラ・カンパネラ』。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番第三楽章を編曲したリストの名曲。
鍵盤の端から端へと駆け抜ける音の奔流。私の手を借りなければならない理由も、頷ける。
この曲は、ピアノの音域を目一杯使う。手が大きく、楽にオクターブが届くくらいでなければ、弾きこなすのは難しい。私は女性の中では手が大きい方で、九度なら無理なく開く。もっとも、それだけで弾けるような曲ではないのだけれど。
技術面で十五年かけても件の少女のレベルに到達出来なかった、私が言うのも烏滸がましいか。私は、ただ母の言いなりになるしか道がなかった。決められた時間に鍵盤へ向かい、決められた曲を弾くだけの只の自鳴琴なのだから。




