連弾
「そう、それなら弾いた甲斐あったわ」
少女はやわらかく笑った。その微笑みはどこか誇らしげで、けれど決して押しつけがましくない。
「『トロイメライ』、私も大好きな曲だから」
その言葉は、驚くほど素直に胸の奥へと落ちてきた。誰かが同じ曲を好きだと言う、それだけのことなのに。胸の奥に長く溜まっていた澱が、ほんの少しだけ溶けていくような。
少女は譜面台から楽譜を抜き取ると、それを大切そうに胸へ抱きかかえた。紙の端が、彼女の細い腕の中で僅かに揺れる。
「あなたはずっと此処で、ピアノの練習をしているの?」
私が尋ねると、少女はこくりと頷いた。
「そうよ。弾いてみたい曲があるんだけれど、私の手じゃ弾けないから、困っていたところなの」
思わず首を傾げる。彼女のような腕前の持ち主でも弾きにくい、難度の高い曲なのだろうか。
少女は徐に立ち上がると、泉の畔に膝を着く。
「この泉ね、」
振り返りもせずに囁く彼女の、細く白い指先が、そっと水面へと沈む。
「弾きたい曲を思い浮かべながら手を浸すと、楽譜が出てくるの」
その言葉と同時に、水面が静かに揺れた。鏡のようだった泉に、小さな波紋が広がっていく。その揺らぎの中心で、何か白いものがゆっくりと浮かび上がってきた。
少女はそれを掬い上げる。白い紙には五線譜、音符、記号に楽語、そして最後にタイトル名が刻まれた。
彼女がくるりと振り返ると、月明かりの中、その笑顔が少しだけ悪戯っぽく見えた。
「そうだ! もし良かったら、『トロイメライ』連弾してみない? 私たちの出会えた記念にね♪」
「でも……」
喉の奥が、酷く乾く。
「私、ブランクがあるから前みたいに弾けるか分からないよ。足を引っ張ることになるかも……」
両の掌をぎゅっと握り締める。指先が白くなるほど力を込めて。
ピアノを辞めた自分に、遠ざかっていた自分に、再び鍵盤へ触れる資格なんてない。
ましてや、母の為に母の望むままに、長い時間を費やしてきたあの頃を思い出すと。胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
あの時の私は、ただ必死だった。間違えないように、期待を裏切らないように、自分に出来る精一杯を音に乗せていた。そんな私が、この少女のように、楽しくピアノを弾くことなんて出来やしない。
「大丈夫、私に任せて! 二人で楽しもうよ。此処で会ったが百年目って言うでしょ?」
少女は、くすっと小さく笑う。
「足を引っ張ってもいいのよ」
軽い調子で、こう続ける。
「それに、半分は私が弾くんだから」
思いの外、あっさりとした言葉。励ましたり勇気づけようとする、そんな重たい響きではない。ただ、当たり前のことを言っただけだと、そんな顔をしている。
「そうだね。次に会うのは百年後かもしれないし……。今夜を楽しみたいから」
良い大人が、こんな幼い少女に慰められるなんて、情けない。自嘲を胸の奥に押し込みながら、鍵盤へと視線を落とす。
少女はピアノの椅子へ戻り、ぽんぽんと隣を叩いた。
「ほら」
誘われるまま、私は恐る恐るその隣に腰掛ける。
「大丈夫」
彼女の声が、春の水のように温かく響く。私は両手を持ち上げると、ゆっくり鍵盤の上へ置いた。
冷たい白鍵の感触が指先から腕へ、胸へと広がっていく。不思議なことに、怖さよりも先に懐かしさが込み上げてきた。
彼女が開かれたままの楽譜を退けると、其処には連弾用の音符が刻まれた、真新しい譜面が置かれていた。まるで、最初からこの場所に私がやって来ることを予感していたかのように。
「じゃあ、いくね」
軽く頷き、最初の音色を落とす。ぽろん、と柔らかな響きが夜に溶けた。それはまるで、夢の扉をそっと開くような優しい音色。
ぎこちないメロディに合わせる伴奏は豊かで、私はその音に負けじと食らいつく。最初は指の動きも鈍く、感覚も曖昧で、どこか借り物のように拙い旋律だった。
けれど、少女の音が隣で柔らかく支えてくれる。急かすことも、責めることもない。ただ静かに、私の音と重なっていく。
『トロイメライ』の夢を見るような、優しい旋律が表情を変えた。
弾いているうちに、不思議と呼吸が整っていくのが分かる。指先が、少しずつ思い出していく。頭で記憶するよりも、何度も白鍵と黒鍵を行き来する手の方がその何倍も覚えているものなのかもしれない。
少女の音は軽やかで、まるで春風のようだった。その風に背中を押されるように、私の音も少しずつ前へ進んでいく。
二つの音が綺麗に重なる。その響きに、胸の奥がふっと温かくなった。母の為にピアノを奏でていたあの頃は、ずっと孤独に苛まれていたのに。独りではないということが、こんなにも嬉しいだなんて。
眠っていた感覚が、ゆっくりと研ぎ澄まされていくみたいに。楽譜を追わずとも、手が思うままに動いていく。
トロイメライの旋律は春夜の空気に溶け、観客の居ない山中を吹き渡る。
最後の和音。少女と同時に、そっと鍵盤を押さえた。
音が静かに消え、余韻だけが夜の中に漂う。私は、じんわりと熱くなった胸にそっと手を当てた。
「ほらね、」
隣を見ると、少女がにこにこと楽しそうに笑っていた。
「弾けたでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間。長い間、雁字搦めに絡まっていた心の糸が、少しだけ解けた気がした。
「ありがとう」
少女はふわりとワンピースを翻し、先ほど泉から取り出した真新しい楽譜を手に取ると譜面台へそっと置いた。
白い紙が、月明かりを受けて淡く光る。
「胡和に、頼みたいことがあるの」
「頼みたいこと?」
私は首を傾げながら楽譜を覗き込んだ。
『ハンガリー舞曲 第五番』
元は民族音楽を編曲した、ブラームス作曲のハンガリー舞曲。第一番から第二十一番まである中、取り分けこの五番が有名なのではなかろうか。
テンポはアレグロ(早く)、パッシオナート(情熱的)に。先程までのトロイメライとは対照的な、燃え上がるような音楽。
「私のピアノの練習に……付き合ってほしいの」
少女は少しだけ照れたように言った。その言葉を聞いた私は、迷うことなく頷く。
「もちろん、付き合うよ」
声が思ったより、明るく弾んだ。彼女のお陰で、胸の奥に残っていた苦い記憶が、ほんの少しだけ和らいだのだ。だから、もし私に出来ることがあるのなら。今度は私が、彼女の力になりたい。
私の言葉に少女は、みるみる表情を綻ばせた。曲はすぐに、躍るようなリズムで始まる。
メロディはシンプルだけれど、左手の音域が広く、跳躍を正確に捉えるには少しだけコツが要る。
「なかなか上手ね、胡和!」
無邪気な声が、音の合間に弾ける。
楽しい――という感覚が正しいのかは分からない。ただ、隣に座っている少女との時間を、大切に味わっていたい。
鍵盤の上で、音が踊る。テンポは次第に熱を帯び、旋律は勢いよく駆け抜けていく。
ふと気付けば、視界の端に桜が舞い踊っていた。夜風に乗って、淡い花びらがひらひらと降り注ぐ。まるでピアノの調べに呼ばれたかのように。
桜吹雪の中で、二人の旋律が重なる。それは春の嵐のように、刺激的でドラマチックな響きだった。
静かな山の中で、ピアノの音だけが自由に駆け回る。夢の続きのような時間が、まだ終わりを知らずに流れていた。




