奏者
「こんな夜更けに、女の子一人で危ないでしょう?」
唐突に、柔らかな声が背後から降ってきた。心臓が跳ね、弾かれた鍵盤のように、私は勢いよく振り返る。
そこに立っていたのは、小学校高学年ほどに見える少女。月明かりに照らされたその姿は、どこか現実離れした可憐さを帯びている。小花柄のレトロなワンピースに、足元にはピンクのビジューが光るミュール。夜の山の中には不釣り合いな程、お洒落な出で立ちだった。
けれど、腕を組み、こちらを値踏みするように見つめるその眼差しは、妙に大人びて見える。
「それは、私のセリフだと思うけれど……」
思わずそう返すと、少女の口元がくすりと緩んだ。
私より遥か年下の子に“女の子”と呼ばれる日が来るとは、思いもしない。
「此処は滅多に人が来ないから、秘密基地にしていたのに……。まさか見つかっちゃうなんてね」
軽く肩を竦めて、彼女は笑った。
「もしかして、このピアノを弾いていたのはあなた?」
「そうだよ」
私がそう尋ねると、少女はあっさりと頷いた。ベンチタイプの椅子にひらりと飛び乗ると、細い指先が鍵盤に触れる。
この音色は、やはり此処に来るまでに何度も聞いた『トロイメライ』そのものだった。指の運びはしなやかで、音の粒が一つひとつ丁寧に揃っている。ペダルの踏み込みも滑らかで、響きが濁らない。
私は思わず、その手元に見入っていた。年若い見た目とは裏腹に演奏は落ち着き、余計な力みがない。鍵盤の豊かな音を引き出すような弾き方。これは、なかなかの腕前と見た。
「あなた、プロのピアニストなの?」
思わず問いかけると、少女は演奏を続けたまま、肩越しにこちらを振り返った。月光を受けた横顔が、ふっと微笑む。
「まだまだ、アマチュアだけれどね。そういうあなたもピアニストでしょう?」
「え?」
不意を突かれ、思わず間の抜けた声が漏れる。言葉を続けようとしたその時、少女は演奏を止めた。
鍵盤から指を離すと、何の躊躇もなくこちらへ歩み寄る。そして、私の手をそっと取った。
その手は、驚くほど冷たかった。
「あなたの指先、どの指もかなり痩せている。それに爪も短くしてあるし、ピアノ弾きの手だと思ってね」
少女は顔を上げた。その瞳には、どこか愉しそうな光が宿っている。
「違う?」
私はほんの僅かに息を呑む。この子の観察眼の鋭さには驚かされる。けれど、それ以上に胸の奥が酷く騒めいた。
「……二年前までは、弾いてたよ。ピアノ」
ようやく、それだけを答える。言葉にすると、思っていたよりもあっさりとした響きだった。
三歳から習い始め、家を出るまでの十五年間。私はピアノに人生を捧げて生きてきた。
特別、好きだった訳ではない。ただ、母の望む「理想の娘」で居るために、鍵盤の前に座り続けた日々。今でも時々、夢に出て来ては胸が締め付けられる。当時の記憶ごと消せたら……と願う程、それは最低最悪の日々だった。
「お姉さんは、ピアノが嫌いなの?」
不意に声をかけられ、私ははっと我に返った。気付けば、いつの間にか思考の底へ沈み込んでいたらしい。
「眉間に皺、寄ってるよ」
少女は私を真似るように、自分の眉間をぐりぐりと指で押してみせる。その愛らしい仕草に、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……嫌い、というより」
笑いながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「苦い思い出、って言った方が良いのかな。でもね——」
少女は黙って、こちらの言葉を待っている。急かすでもなく、ただ静かに耳を傾けていた。
ふいに視線をピアノへと向ける。
「さっき聴こえた曲、トロイメライは私の大好きな曲なんだ」
その瞬間、少女の瞳が少しだけ煌めいた気がした。
「私が初めて“自分で弾きたい”って思えた曲なの」
言葉にしながら、遠い日の記憶が胸の奥から少しずつ浮かび上がってくる。元々その曲は、私の好きな作家の先生が、好きなクラシック曲として挙げていたもので。作品のあとがきにも触れられていて、私はその曲が気になって仕方がなかった。
初めてメロディを聴いた時のことを、今でも覚えている。柔らかくて、どこか懐かしい旋律。まるで遠い夢を覗き込むような、不思議な温もりがあった。
だから私は、その年の発表会でこの曲を弾くと申し出たのだ。
幼い頃から、曲はすべて母が決めていた。言われるままに曲を選び、練習してきたけれど、あの時だけは違う。初めて自ら弾きたいと志願した曲、それが『トロイメライ』だったのだ。
少女は何も言わず、静かに私の話を聞いている。
「でもね、母はあまり気に入らなかったみたい」
発表会の演奏が終わった後、客席に戻ると、母の表情は曇っていた。
「自分で弾きたいって言った割には、イマイチの出来だったわね」
「次からは、私の要望通りの曲を弾きなさい」
私は、母から発せられる言葉をただ黙って聞くことしか出来なかった。だから、ほんの少しだけ、後悔してしまったのだ。あの曲を選んだことを。
本当は、誇っても良かったはずなのに。胸の奥が今もなお、じくじくと疼く。鍵盤の上に置き去りにしてしまった小さな感情は、今でもずっと胸の奥に突っかえたまま。




