↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
巫のまつりごと  作者: 一靑華巳
トロイメライ
PR
34/61

奏者

「こんな夜更けに、女の子一人で危ないでしょう?」


 唐突に、柔らかな声が背後から降ってきた。心臓が跳ね、弾かれた鍵盤のように、私は勢いよく振り返る。


 そこに立っていたのは、小学校高学年ほどに見える少女。月明かりに照らされたその姿は、どこか現実離れした可憐さを帯びている。小花柄のレトロなワンピースに、足元にはピンクのビジューが光るミュール。夜の山の中には不釣り合いな程、お洒落な出で立ちだった。


 けれど、腕を組み、こちらを値踏みするように見つめるその眼差しは、妙に大人びて見える。


「それは、私のセリフだと思うけれど……」


 思わずそう返すと、少女の口元がくすりと緩んだ。


 私より遥か年下の子に“女の子”と呼ばれる日が来るとは、思いもしない。


「此処は滅多に人が来ないから、秘密基地にしていたのに……。まさか見つかっちゃうなんてね」


 軽く肩を竦めて、彼女は笑った。


「もしかして、このピアノを弾いていたのはあなた?」


「そうだよ」


 私がそう尋ねると、少女はあっさりと頷いた。ベンチタイプの椅子にひらりと飛び乗ると、細い指先が鍵盤に触れる。


 この音色は、やはり此処に来るまでに何度も聞いた『トロイメライ』そのものだった。指の運びはしなやかで、音の粒が一つひとつ丁寧に揃っている。ペダルの踏み込みも滑らかで、響きが濁らない。


 私は思わず、その手元に見入っていた。年若い見た目とは裏腹に演奏は落ち着き、余計な力みがない。鍵盤の豊かな音を引き出すような弾き方。これは、なかなかの腕前と見た。


「あなた、プロのピアニストなの?」


 思わず問いかけると、少女は演奏を続けたまま、肩越しにこちらを振り返った。月光を受けた横顔が、ふっと微笑む。


「まだまだ、アマチュアだけれどね。そういうあなたもピアニストでしょう?」


「え?」


 不意を突かれ、思わず間の抜けた声が漏れる。言葉を続けようとしたその時、少女は演奏を止めた。


 鍵盤から指を離すと、何の躊躇もなくこちらへ歩み寄る。そして、私の手をそっと取った。


 その手は、驚くほど冷たかった。


「あなたの指先、どの指もかなり痩せている。それに爪も短くしてあるし、ピアノ弾きの手だと思ってね」


 少女は顔を上げた。その瞳には、どこか愉しそうな光が宿っている。


「違う?」


 私はほんの僅かに息を呑む。この子の観察眼の鋭さには驚かされる。けれど、それ以上に胸の奥が酷く騒(ざわ)めいた。


「……二年前までは、弾いてたよ。ピアノ」


 ようやく、それだけを答える。言葉にすると、思っていたよりもあっさりとした響きだった。


 三歳から習い始め、家を出るまでの十五年間。私はピアノに人生を捧げて生きてきた。


 特別、好きだった訳ではない。ただ、母の望む「理想の娘」で居るために、鍵盤の前に座り続けた日々。今でも時々、夢に出て来ては胸が締め付けられる。当時の記憶ごと消せたら……と願う程、それは最低最悪の日々だった。


「お姉さんは、ピアノが嫌いなの?」


 不意に声をかけられ、私ははっと我に返った。気付けば、いつの間にか思考の底へ沈み込んでいたらしい。


「眉間に皺、寄ってるよ」


 少女は私を真似るように、自分の眉間をぐりぐりと指で押してみせる。その愛らしい仕草に、思わず吹き出してしまった。


「ふふっ……嫌い、というより」


 笑いながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「苦い思い出、って言った方が良いのかな。でもね——」


 少女は黙って、こちらの言葉を待っている。急かすでもなく、ただ静かに耳を傾けていた。


 ふいに視線をピアノへと向ける。


「さっき聴こえた曲、トロイメライは私の大好きな曲なんだ」


 その瞬間、少女の瞳が少しだけ煌めいた気がした。


「私が初めて“自分で弾きたい”って思えた曲なの」


 言葉にしながら、遠い日の記憶が胸の奥から少しずつ浮かび上がってくる。元々その曲は、私の好きな作家の先生が、好きなクラシック曲として挙げていたもので。作品のあとがきにも触れられていて、私はその曲が気になって仕方がなかった。


 初めてメロディを聴いた時のことを、今でも覚えている。柔らかくて、どこか懐かしい旋律。まるで遠い夢を覗き込むような、不思議な温もりがあった。


 だから私は、その年の発表会でこの曲を弾くと申し出たのだ。


 幼い頃から、曲はすべて母が決めていた。言われるままに曲を選び、練習してきたけれど、あの時だけは違う。初めて自ら弾きたいと志願した曲、それが『トロイメライ』だったのだ。


 少女は何も言わず、静かに私の話を聞いている。


「でもね、母はあまり気に入らなかったみたい」


 発表会の演奏が終わった後、客席に戻ると、母の表情は曇っていた。


「自分で弾きたいって言った割には、イマイチの出来だったわね」


「次からは、私の要望通りの曲を弾きなさい」


 私は、母から発せられる言葉をただ黙って聞くことしか出来なかった。だから、ほんの少しだけ、後悔してしまったのだ。あの曲を選んだことを。


 本当は、誇っても良かったはずなのに。胸の奥が今もなお、じくじくと疼(うず)く。鍵盤の上に置き去りにしてしまった小さな感情は、今でもずっと胸の奥に突っかえたまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。