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巫のまつりごと  作者: 一靑華巳
トロイメライ
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トロイメライ

 四月の別名は卯月。卯の花(空木(うつぎ)の白い花)が咲く季節だから、そう呼ばれるらしい。枝先に群れるように咲く純白の花は、とても可愛らしいけれど実際に見る機会は殆(ほとん)ど無い気がする。


 春の花と云えば、やはり桜を思い浮かべる人が大半であろう。その都の至る所に咲き誇っていた薄桃色の花弁も、先日の雨でだいぶ散ってしまったけれど。


 代わりに、色褪せた花筏が川面を緩やかに流れていく。水面に浮かぶ花びらが寄り集まり、淡い帯のように連なっている様は何とも筆舌に尽くしがたい風情があって良い。華やかな満開の時とは違う、少し寂しげでそれでいて静かな余韻を残す姿もまた、一興というもの。


 かの小野小町の和歌には、春の雨で色褪せてしまった桜を自身の容姿に重ね合わせ、嘆き悲しむ様が詠まれている。かく言う私は、生まれた時から散り行く花の最期に似て他人を落胆させてばかり。この命が散るまでに、せめて一人でも愛でてくれる者が居ればこれ幸いなのだが。現実はそう甘くない。


 四月も半ばの、夜の帳が降りる頃。


 Tシャツ一枚のままバルコニーの椅子に腰掛け、現世の菓子を貪るのが最近の密かな楽しみになっていた。夜風はまだ僅かに冷たいが、それが却(かえ)って心地よい。


 袋を開けると、甘い香りがふわりと漂う。チョコ系のお菓子が大好物なので、幾つか売店で買い溜めていた。人間の世界の菓子は、どうしてこうも罪深いのだろうか。軽い気持ちで一口食べれば、気付いた時には袋の底が見えている。


 眼下には、灯りの少ない都の街並みが広がっており、現世のように眩しいネオンも、夜通し響く騒音もない。ただ、所々に灯る行灯の明かりが、闇の中にぽつりぽつりと浮かんでいるだけだ。


 その代わりに、夜空には満天の星。天体には詳しくないけれど、この時期なら確か「春の大三角」が見えるはず。どの光がどの星のものかは分からないけれど、私の瞳には相変わらず美しい煌めきとして映り続ける。


 スマホが使えれば、この絶景を写真に残しておけるのに。娯楽もある程度は制限されてしまう。でも、こうしてお宿の一室で優雅な日々を過ごせるのは、感謝感激雨あられ。


 ただ一つ気がかりなのは、ここ数日、毎晩のように洋琴(ピアノ)を奏でる音色が聞こえて来るということ。


 開始の時刻は疎(まば)らだけれど、曲名は私もよく知っている。一体何処から、誰が弾いているのか、甚だ疑問だ。


 この曲は一見、簡単そうなメロディに聴こえるけれど、弾いてみればなかなか奥が深い。かつて、私がピアノを習っていた時分に発表会で演奏した思い出深い曲なのだ。


 曲を聴いて胸の奥が疼(うず)くのは、ピアノ自体にあまり良い思い出が無いから。もう辞めて二年は経つのに、心の傷はそう簡単に癒えないもの。鍵盤の重さと指の感触が、音に引きずられるようにして蘇ってくる。


 さて。私は手にしていたペットボトルの水を飲み干し、バルコニーを後にした。磨り硝子(ガラス)の引き戸を静かに閉め、露天風呂へ向かう支度を始める。


 私が泊まっているお宿は、人間だけが宿泊を許された十二階建てのモダンな温泉宿。その名を『五光亭(ごこうてい)』という。“五光”と聞いて、感の良い人は思い当たる節があるかもしれないが、この宿は花札を意匠に取り入れている。廊下の装飾から客室の名称に至るまで、札の趣向が各所に散りばめられていた。


 私の泊まっている部屋は『桐の間』。花札で云うところの十二月の札『桐に鳳凰』に準(なぞら)え、内装もところどころ桐の花が施されている。例えば、座敷と座敷の境、鴨居の上部。欄間(らんま)に桐の花の透かし装飾を発見した折は、思わず声を上げそうになった。木肌の柔らかな陰影の中、控えめに咲く桐の花に年甲斐も無く小躍りしそうになったのは此処だけの話。


 私はタオルと替えの浴衣を風呂敷に包み、そっと部屋を出る。昇降機(しょうこうき)で一階へ降り、そこから離れへと続く廊下を進んだ。磨き込まれた板張りの廊下には、等間隔に吊るされたランプの灯りが柔らかく映り込んでいる。大きな窓の外には夜の庭が広がり、桜の木々が風に揺れていた。


 最初に案内された時は、この距離にやや躊躇したものだ。けれど以前、白練様と共に湯に浸かった日を境に、この道のりも悪くないと思えるようになっていた。


 やがて湯殿の暖簾が見えてきた。泉質は様々だが、温泉というのは肌に良いものが大半である。入らねば損というものだ。生まれつき肌が白いことだけが私の細(ささ)やかな取り柄なので、それを守る為にもこれ以上の策は無かった。


 衣を脱ぎ、湯気の立ち込める露天浴場へ足を踏み入れる。この時間帯は人の気配もない。広々とした湯殿を独り占めに出来るのだ。湯船に足先を沈めると、柔らかな熱がじんわりと肌へ広がった。


「最高……」


 とろりと肌を包む湯に、重たい思考さえ溶けていく。


 つい長湯してしまうのが難点だが、かれこれ十数分は経った頃だろうか。微かに例の音色が、また耳に入って来た。湯面に落ちる雫の音とは違う、澄んだ旋律。空耳かと思ったそれは、水音の隙間を縫うように私の耳に届いた。


 どうやら音色は、裏手の山の中から響いているようだった。てっきり、五光亭の宿泊客の誰かが部屋で弾いているものと思っていたのに。


 穏やかなメロディが耳心地よく、私はそっと瞼を閉じる。繰り返されるフレーズ。同じ旋律のはずなのにペダルを踏み込む度、響きは僅かに表情を変える。その微かな変化が、胸の奥へじわりと染み込み、まるで水が砂へ吸い込まれるように心へ浸透していく。ピアノを思い出すとき、いつも胸を刺していた棘が今夜は幾分か丸くなっているような気さえした。


 やがて音色が、ふっと途切れた。その余韻を後に、急ぎ足で脱衣所へと戻る。


 出来れば、このピアノの奏者にお目にかかりたいもの。山の中に入れば運良く出会えるだろうかと、逸る好奇心を抑えて風呂敷に元の衣服とタオルを包む。檜の香る脱衣所を、颯然(さつぜん)と後にした。


 初めて都を訪れた折は慣れないパンプスで苦労したものだ。けれど、今は履きなれた黒のスニーカーを身に付けている。おかげで足元は磐石(ばんじゃく)、何より多少汚れても気にならない。


 さて。私は離れとは真逆の道を辿り、山奥へと踏み入った。こんな夜更けにライトも持たず、一人山道を進むなど本来は危険極まりない。けれど、今夜は月明かりのお陰で夜闇の輪郭がはっきりと見える。


 そして何より、あの音色が、途切れることなく鳴り響いていた。夜の静寂を裂くでもなく、ただ寄り添うように。これは偶然? もしかすると、神様のお導きなのかもしれない。


 そういえば、今の状況に似た伝説があったっけ。笛の音色で子供たちを誘い出し、やがて連れ去ったという、ドイツの町 ハーメルンに伝わる物語。俗に言う『ハーメルンの笛吹き男』である。


 もっとも、私は歴然とした大人で、ピアノの音色に惹かれた只の宿泊客なのだけれど。これが、吉と出るか凶と出るかはまだ分からない。


 湿った土を踏みしめ、道なりに進む。足裏に伝わる感触は柔らかく、ところどころに露を含んだ落葉が混じっていた。踏み込む度、微かな土の匂いが立ち上る。


 春の名残を帯びた夜風が頬を撫で、その風に乗って旋律は少しずつ輪郭を強めていった。


 胸の奥で鼓動がひとつ早まるのを感じ、私は道を急(せ)く足に力を込めた。これは、確実に奏者へ近付いている証。


 時計が無いので正確な時刻は分からないが、体感では二十二時前後といったところだろう。


 やがて、道がふっと開けた先。こんこんと泉が湧き出る、不思議な空間が広がっていた。


 岩肌の合間から透明な水が絶えず湧き出し、小さな泉となって溜まっている。水鏡は夜桜を映し込み、淡い花弁が水面にも空にも舞っていた。まるで泉の底にまで、別の世界が広がっているかのようで、上下の感覚が綯(な)い交ぜになっていく。何処からが現で、何処からが幻なのか。一瞬、そんな錯覚に陥った。


 水深は分からないが、うっかり足を滑らせてあの世行きになっては困るので、私は泉の縁(ふち)を避けて遠回りする。


 そして、その対角線上に見えたのは、黒く大きな影。月明かりを受けて、静かに光る輪郭。親の顔より見慣れたその形を、私は一瞬で理解した。それは、蓋が開かれた状態のグランドピアノだった。


 艶やかな黒漆のボディに目が釘付けとなり、私は勇み足で泉の畔へと向かう。


 眼前まで来ると、丁寧に手入れされた黒鍵と白鍵がより一層輝いて見えた。雨避けも無い屋外のピアノが、こんなに綺麗なはず無いのに。どういう訳か、新品同様の美しい佇まいであった。


 肝心の奏者の姿は見当たらない。それでも、そこに置かれた楽譜を見た瞬間、胸の奥で小さく息を呑む。


 思った通り、譜面の上には見慣れたタイトルが刻み込まれていた。


『トロイメライ』


 シューマンのピアノ曲集『子供の情景』第七曲として有名で、タイトルの意味は確か……。

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