願い
楽しい食事のあと、私たちは売店の奥にある娯楽室へと向かった。畳敷きの一角に、ぽつんと置かれた卓球台を見つけ、私は思わず足を止める。
「やりますか? 卓球」
「ほう、面白そうじゃな。では──三本勝負といこう。二本先取した方の勝ちじゃ」
ラケットを手に取る仕草まで、妙に様になっている白練様。
背丈も伸び、私とそう変わらない身長になると得意気に笑った。共に瑠璃桜の御神木を見上げたあの時がふと思い出される。
「負けた方が、何でも一つ言うことを聞く。というのは、どうじゃ?」
さらりと言ってのけるが、金の瞳が悪戯に光る。
「望むところです」
浴衣の袖を軽く整え、向かい合う。
軽く一礼して、一戦目。白い球が弾む乾いた音が、静かな室内に響く。思ったよりも速い。
「っ……」
白練様は予想以上に俊敏だった。浴衣の裾を翻し、身体を低く沈めて鋭い角度で打ち返してくる。尾の動きと連動しているのか、リズムが読めない。
「ふふふ、甘いわ」
回転が強く、球足が伸びる。私は一歩遅れ、ラケットが空を切った。
「一本目、我の勝ちじゃな」
白練様は余裕の笑み。悔しい。
「まだまだ、勝負はこれからですよ」
私は球を拾い上げ、構える。
──そう簡単には、負けない。
二戦目、今度は私のサーブから始まる。出来るだけ低く、回転をかけた。
けれど──
「見えておるぞ」
まるで球筋を読むどころか、先回りしているかのような華麗なる身のこなし。
「まさか、神通力で軌道を読んでませんよね?」
「さて、どうじゃろうな?」
相手の癖は、もう少しで掴めそうなのに。
「……っ」
軽く回転をかけ、あえて緩い球を送る。打ち急がせる算段だ。ラリーが続き、乾いた音が規則正しく刻まれる。
やがて、球が軽く浮いた瞬間が到来し、私はその隙を見逃さなかった。思い切り踏み込み、鋭く返すと球は台の端を掠め、白い線ぎりぎりを滑る。
「ぬっ……」
ピンポン球は、白練様のラケットの縁に当たり、軌道がぶれると軽い音を立てて床へと落ちてしまった。
「……一本ずつ、ですね」
三戦目、静かに張り詰める空気。湯上がりの火照りとは別の熱が、胸の奥でじわりと広がる。
娯楽室の外では誰かの笑い声が遠く響いているのに、この卓球台の周囲だけが切り取られたかのように静かだった。
「最後じゃな」
白練様の金の瞳が、すっと細まる。サーブが繰り出され、乾いた音が響いた。
ラリーが続き、一球ごとに速さが増していく。
母に言われるがまま、小一から六年間通ったテニススクール。勝っても当然で負ければ叱責され、褒められた記憶もほとんどない。胸の奥に沈んだ、小さな棘となった記憶。
──でも、今は違う。勝っても負けても、怒られることは無い。目の前にいる御方は、順位を求める者ではなく、ただ勝負を楽しみたいだけの可憐な存在。
手前に球を落とすと、白練様の打球がほんの僅かに浮く。その一瞬に私は全てを賭けて、思いきり振り抜いた。少しでも軌道がぶれると、ネットかあるいはアウトになってしまうギリギリのライン。
球は鋭く弧を描き、乾いた音を残して台の隅へ。
「……参ったのう」
白練様は肩を竦め、それでも何処か楽しげに笑った。
「流石は胡和、上手いものだ。何か運動でもしておったのか?」
「ええ……、まぁ。小学生の頃、テニススクールに通っていたので、球技は出来る方……なのかな」
上達しても褒められることはなく、勝っても次の技量とレベルを問われ続けた日々が蘇る。今こうして、笑ってラケットを振れるのは、不思議なことのようにも思えた。
「“出来る方”ではなく、“強い”の間違いではないか?」
その白練様の御言葉に、胸の奥が少しだけ震える。強い、なんてそう言われたことは、殆どない。
ラケットを台の上に置くと、私は指先をぎゅっと握り締めた。
「さて、約束は約束じゃからの。何が望みか?」
白練様の明るい声に、私は顔を上げる。勝った嬉しさと、これから口にする願いの緊張とが入り交じり、胸が跳ね上がる。
迷いを飲み込み、私はそっと白練様の耳元へ唇を寄せた。
「……本当に、それで良いのか?」
低く落ちた声は、からかいではなく確かめるような響きを帯びている。
「はい。お願いします……」
次の瞬間、白練様の輪郭が淡く揺らいだ。陽炎のように空気が歪み、
「どうだろうか。上手く化けられておるか?」
「……!」
其処に立っていたのは──
「凄いです。本当に……、領主様にそっくりで……」
青藍の髪、白き象牙のように滑らかな角。青褐の瞳が静かにこちらを射抜き、唇の端から覗く糸切歯が微かに煌めいて見える。
その佇まいと気配はどれをとっても鬼神そのもので、胸の奥が酷く騒つく。懐かしさと畏れと、そして言葉に出来ない何かが入り混じった感情に支配される。
「まぁ、大神様のご尊顔より見た顔じゃからな」
「……、本当に綺麗な顔……」
冷たい刃のような威圧と、誰も寄せ付けない孤高の存在。けれど今、目の前にいる“領主様”は違う。
同じ青藍の髪、同じ角、同じ瞳。それなのに、纏う気配はどこか柔らかく、春先の水のように温かい。
鋭さの奥に温もりがある。威圧の代わりに余裕を感じる。
そして何より──
「そうか?」
口角を僅かに上げた、その御顔。
笑った。その瞬間、胸が強く脈打つ。
領主様が笑う姿など、今まで一度も見たことがない。本物の彼は、いつも口を固く結び、感情を押し殺したような面持ちでいるから。
まるで笑い方そのものを、遠い昔に置き去りにしてしまったかのように。
けれど、目の前の“彼”は、笑っている。柔らかく、穏やかに。
「胡和は、鬼神が好きなのか?」
不意に問われ、息が詰まる。声色は冗談めいているのに、瞳は静かだ。
「……ええと、敬愛……しています」
少しだけ間を置いて、そう答える。
“領主様”は一歩、こちらへ歩み寄った。畳が軋み、距離が近付く。青褐の瞳が、真正面から私を映した。
「こうして笑えば、少しは近付きやすいか?」
「……それは、どうでしょうか……。話しやすくなる気もしますが、調子が狂うというか何と言うか……」
思わず、口ごもる。この笑顔を本物の彼から向けられたとしたら、私は何にも変え難いほど嬉しいかもしれないけれど。
「ふむ……」
“領主様”は顎に手をやり、わざとらしく思案する。その瞳の奥に、ほんの僅かな真剣さが宿っているのを、私は見逃さない。
──いつか。
この方が仮初めではなく、心の底から笑うその瞬間を。命じられたからでも、演じる為でもないその姿を、私はこの目で見てみたいのだ。
目の前の“領主様”は、ゆっくりと瞬きをする。
「胡和は、不思議な娘じゃな」
「え……?」
「罰として求めるのが、別の男の顔とは」
からかうように笑うその声音は、もう白練様のものに戻りかけていた。
「……今しか、見られないと思ったので」
つい、本音が零れる。私は、本物の彼との接点が少ない。彼は鬼神で、この五都を統べる領主様で。けれど、私は一介の人間に過ぎないから。
七年前に救い、救われただけの関係から進展もない。この先も、たぶん変わることはないだろう。
それでも、私は心の底から願ってやまないのだ。神前で願った想いが形になることを。
青藍の髪が、ふわりと揺らいだ。角が霞み、瞳の色が淡く溶ける。
「覚えておこう」
最後にそう呟いた声は、鬼神のそれでも、白練様のそれでもなく。何処か、ただの“彼”として聞こえた気がした。
光が解けた次の瞬間、そこに立っていたのは金の瞳を細める白練様。
「さて、これで満足か?」
「……はい」
胸の騒めきはまだ消えない。それは、確かな祈りへと形を変える。いつか、こうして本当の彼と笑い合える日が来たら、と。
その、いつかが遠くない未来に起こるようにと、心密かに願うのだった。




