写鏡
「胡和も随分と濡れてしまったな。これでは風邪を引いてしまうから、早く温泉に浸かって温まるのじゃぞ」
白練様の心配そうに細められた瞳が、どこか心許ない。確かに、このまま体を冷やして体調を崩しては元も子もないので、素直に頷く。
「ありがとうございます。白練様の方こそ、お疲れでしょうから、着いたら露天風呂に入られませんか?」
化けるにも妖力を要するのだろう。白練様の頬は僅かに青白く、まぶたは重たげに伏せられている。
「……そうじゃな。ちと疲れたし、休んで行くか」
欠伸を噛み殺しながら、それでも律儀に花車を操る姿が愛らしい。行きよりも幾分ゆるやかな速度で、花車は山間を進む。
雨上がりの山はしっとりと匂い立ち、若葉が光を孕んでいた。濡れた岩肌が鈍く輝き、沢の水音が澄んで響く。春の風情を存分に味わえるのが、何とも贅沢であった。
さて。花車を降りると、私たちは露天風呂へと直行する。この湯処は日替わりで泉質が変わるため、暖簾をくぐるまで何が湧いているのか分からない。それもまた、密かな楽しみの一つだった。
湯気の向こうを覗き込み、私は小さく声をあげる。
「どうやら今日は、にごり湯のようですね」
硫黄の匂いが仄かに漂う。乳白色の湯は傾いた陽に照らされ、淡く光っていた。
「ほう。冷え症や疲労回復に良いと聞くから、今の我らにもぴったりじゃな」
白練様は満足そうに頷き、ふらりと一歩踏み出す。湯気に包まれたそのお姿は、どこか幼く見えた。
湯に身を沈めた瞬間、ほうと深い息が零れる。
「ごくらく、ごくらく〜」
尾先が湯面をかき混ぜ、白い波紋が静かに広がる。その様子に、思わず笑みが零れた。
「良い湯加減ですね」
私もそっと肩まで浸かる。乳白色の湯が肌に溶け、まるで絹を纏うかのようだった。美肌の効能もあると聞けば、なおさら丁寧に馴染ませたくなるというもの。
「……今日は色々ありましたね」
ぽつりと呟くと、白練様は目を閉じたまま応じた。
「うむ。しかし、終わり良ければ全てよし、じゃ」
その声は、もう先程の掠れを含んでいない。
「……だいぶ力も回復して来たしな」
湯面を指先で揺らしながら、白練様がぽつりと零す。
「ふふ、今日の白練様、とても素敵でしたよ。何にでも化けることが出来るのですか?」
「まぁ、ある程度はな。これでも狐の端くれじゃし」
自嘲気味に笑うが、その横顔はどこか誇らしさが滲んでいた。流石はお狐様。私もあんな風に、自在に姿を変えられたなら──などと、つい夢想してしまう。
「もしかして……」
湯気越しに、そっと視線を向ける。
「誰かに似せて、化けることも出来るのですか?」
「うむ。やって見せようか」
その声と同時に、白練様の輪郭がふわりと揺らいだ。湯気が一層濃くなり、視界が白に染まる。
次の瞬間、そこに立っていたのは────
「……私?」
瓜二つの顔が、いたずらっぽく笑った。見慣れたはずの自分の顔が、自分ではない誰かの意思で動く奇妙さに、思わず息を呑む。
「凄いです! 写鏡みたい」
「胡和のことは、よーく観察しておるからな。これくらい朝飯前じゃ。……おっと今は夕餉前じゃな」
自分と同じ声が、同じ調子で冗談を言う。その違和感が、何処かくすぐったくて落ち着かない。
「そんなに見られていたなんて、知りませんでした」
「胡和は隙だらけじゃからの」
“私”が肩を竦める。その仕草まで再現されていることに、頬が熱を帯び出す。
やがて白練様は、くつりと笑い、姿を元に戻した。湯気の中から現れた本来の姿にほっとする。
「そういえば、白練様はいつも摩天楼でお食事を?」
「ああ……いや。外食がほとんどじゃな。神と違って、何でも食べるからの」
「そうなんですね。宜しければ、白練様も五光亭で食べて行かれませんか? 女将さんに掛け合ってみますし」
言ってから、ほんの少しだけ緊張が走る。これはお節介かもしれない。もう少しだけ白練様と一緒の時間を過ごしたいという、単なる私の我儘に過ぎないから。
「まぁ、胡和がそう言うなら、頼もうかの。今日はどうせ暇じゃし」
白練様は一瞬だけ目を細め、それから肩を竦めた。尾の先が楽しげに揺れ、湯面に波紋を広げる。その笑みを見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる心地がした。可愛い妹が出来たような、そんな気持ち。
──いや、本当は逆かもしれない。
私には一人、弟がいる。幼い頃はよく一緒に笑い、他愛もない話をしたものだ。公園で日が暮れるまで遊んで、帰ってからも祖父が貸してくれたファミコンで仲良く三人遊んだりもして。
けれど、私が中学に上がる頃に祖父は亡くなり、私自身も塾通いで家を空けるようになると、いつの間にか弟との会話は減ってしまっていた。顔を合わせれば憎まれ口ばかり叩かれる。気付けば、お互いを避けるようになってしまったのだ。何気ないやり取りを最後に交わしたのは、弟が十歳の頃だっただろうか。
湯面に映る自分の顔が、ゆらりと揺れる。白く濁った湯は底を隠してくれるのに、記憶までは隠してくれない。白練様と交わす、この穏やかな時間が少しだけ懐かしくて、少しだけ切なかった。もし、あの頃のまま時が止まっていたなら、弟ともこんな風に笑い合えたのだろうか。
と、湯気の向こうで、白練様がこちらを見ている気配がした。
「胡和……、平気か?」
「え……?」
その蜂蜜のような金の瞳が、静かに揺れている。
「難しい顔をしておったから……」
白練様のその言葉に、慌てて口元を緩める。
「いえ、何でもありません。この後、何食べようかなぁって考えていただけで……」
白練様はしばし私を見つめ、それ以上は追及せずに、ふっと笑った。
「ならば我は甘いものを所望する。疲れた身には糖分が効くからの」
その軽やかな物言いに、心が救われる。白練様の温もりに胸が満たされ、今はただ、この一時を大切にしたいとそう思うのだった。




