催花雨
視線の先に、もう一つの白。白練様のその躰は微かに透け、先ほどよりも明らかに光を失っている。自らの力を削り、格上を招いた代償だろうか。九頭龍は悠然と空を巡りながら、白練様を一瞥した。
その刹那、光の雨の密度がふと増したような気がした。その雨が白練様の鱗を柔らかく包み込むと、萌黄色の灯が再び強まる。
九頭龍は一声、高く鳴いた。それは先ほどの慟哭とは違う春の空を割るような響きで、暇乞いのようにも感じられた。
やがて、光は静かに収束していく。雲は閉じ、裂け目は消え、天は元の色へと戻って行った。
「……綺麗でしたね」
「ああ」
それ以上の言葉は要らなかった。九頭龍が光の尾を引きながら天界へと昇っていく頃には、あれほど暴れていた巨大な虫も跡形もなく消え去っていた。まるで初めから存在しなかったかのように、庭には静寂だけが残る。
「なかなか、見事じゃったなぁ」
砕けたはずの石も、抉れたはずの土も、いつの間にか元の姿を取り戻していた。九頭龍の雨は、ただ命を潤すだけでなく、乱れた理までも整えてしまうのだろうか。
「白練様も、大変お美しかったですよ」
純白の龍をこの目で見たのは初めてだった。寺院の天井や襖に描かれた龍は幾度も目にしてきたけれど、白──それも透明に近い龍など見たことがない。光を宿し、雨を纏うその姿は、神話そのものの顕現のようであった。
「いやぁ、これぞ不幸中の幸い。胡和が手助けしてくれたお陰で、思いのほか早く片付いた。礼を言うぞ」
白練様は得意げに尾を揺らしながらも、どこか照れくさそうに笑う。
「そんな、礼を言われるようなことは何も……」
私はただ巻物に文字を書き入れただけで、対して何も出来なかった。人に出来ることなど、たかが知れているので、白練様の力に比べれば取るに足りないことなのだ。
「まぁ、今回ばかりは白練様のお陰ですよ。俺たちだけじゃ、倒すことも封じることも出来ずに居たと思いますから」
朔夜さんは相変わらず左腕を押さえていたが、先程より表情は穏やかだった。怪我の痛みが和らいだのだろう、あの恵みの雨の効能なのかもしれない。
「あまり、無理はなさらないでくださいね」
「大丈夫、胡和ちゃんが心配するほどの怪我じゃないからさ」
柔らかい微笑みが少しだけ眩しい。
「さてと。我は胡和を送り届けてくるから、朔夜も早めに摩天楼へ帰るのじゃぞ。花車は定員一名じゃから、乗せて行ってやれんが拗ねるなよ」
「拗ねませんよ」
朔夜さんは肩を竦め、苦笑した。けれど、その視線はほんの少しだけ名残惜しそうに、私へと向けられる。
「今日はとんだ一日になってしまったね。胡和ちゃんも帰ったら、ゆっくり休むんだよ」
「……はい、朔夜さんもお気を付けて」
白練様の花車に乗り込み、ふわりと宙へ浮かび上がる。
見上げれば、先程までの曇天が嘘のように晴れ渡り、青空には淡く彩雲が棚引いていた。雨に洗われた世界はどこまでも澄み切って見える。
地上では、朔夜さんが右手を高く掲げていた。住職さん達も並び、静かに手を合わせているその姿が、少しずつ小さくなって行く。遠ざかる寺を振り返りながら、私は大きく手を振った。花と雨の香りで満たされた今日という一日を、きっとこの先も忘れることはないだろう。
空は高く、どこまでも青かった。




