白龍と九頭龍
「なかなか、大変な作業じゃったな」
白練様は、ふぅと小さく息を吐いた。
「巻物の端から端まで、書き込みましたからね」
墨で所狭しと並ぶ言葉たちは、瑞々しく艶やかだ。じっと見詰めていると、文字の奥で何かが脈打っているようにすら感じられる。
「それで、どうやって虫退治するのですか?」
私の問いに、白練様は口の端を僅かに上げた。
「まぁ、見ておれ」
二人で軒下へ出ると、鈍色の雲が空を覆っていた。ここへ来た当初は彩りに満ちた空だったのに、今はすっかり怪しい空模様。揺れは収まっているが、いつ再び地が唸るか分からない。倒壊の危険が無いにせよ、用心しなくては。
「そぉーーれ」
白練様は腕を掲げると、勢いよく巻物を空へと放った。ひらり、と舞い上がった巻物は、風を孕みながら空中で解けて行く。
墨で綴られた言葉たちは曇天を取り込み、弧を描きながら空を覆い尽くした。
ぽつり。
一雫の雨粒が、私の頬に落ちる。次の瞬間、二滴、三滴と続き、やがて音を立てて降り始めた。
降り注ぐ雨粒が地に触れる度、微かな蒸気が立ち上り、まるで大地そのものを浄めるかのようだった。
「これは成功……?」
降りしきる雨の中、私は思わず呟く。
「まだまだ」
白練様は静かに、愉しむようにほくそ笑んだ。その声音には、底知れぬ余裕が滲んでいる。
次の瞬間――
ふわり、とその体躯が淡く発光した。雨粒を受ける度に、その光は強まり、まるで水を糧にするかのように輝きを増していく。
虹彩が走り、空を裂く七色の閃光が、その身を包み込む。白き鱗が、一片、また一片と現れ、煌めきながら連なっていく。
────龍だ。
それはもはや、狐の面影を留めていなかった。長くしなやかな躯が山を見下ろすように畝り、尾は雲を払うように靡く。雨雲の中を縫うそのお姿は、一筋の雷にも似て、曇天に描かれた白銀の軌跡だった。
「白練様……?」
あの御方は、神様のお遣いの白狐だったはず。ならばこれは神通力か。筆舌に尽くし難いほど、あまりにも神々しく、あまりにも美しい。
降り注ぐ雨が龍の鱗に触れるたび、光となって弾ける。その光は天へと昇り、雲を押し広げていく。やがて、白龍は東の方角へと舞い上がった。
そして――
轟。咆哮が放たれる。人の耳にはほとんど届かない、低く震えるような響き。だが大気は震え、山の木々は騒めき、地の底まで揺らす。それは威嚇ではない。
まるで、何者かを呼んでいるかのような──
空は、いつの間にか白と黒の二色に引き裂かれていた。天が割れ、その境界から蜘蛛の糸のような一筋の光が垂れ落ちている。
「胡和ちゃん!!」
不意に名を呼ばれ、私ははっと振り返る。
「朔夜さん!?」
駆け寄ってきた彼は、全身が泥と風雨で汚れ、左腕を庇っていた。肩で荒く息をし、明らかにただ事ではない。
「もしかして、怪我を……」
「それより――あの龍は白練様か……?」
苦痛を押し隠すように、彼は空を仰いだ。
「はい。巻物を広げたら雨が降って、それで白練様があのお姿に……」
白龍はなおも天を睨み、哮る。その視線の先にあるのは、白と黒を縫い止めるように垂れる、あの光の糸。
「そうか……白練様のお陰で百足は静まっている。だが、封じることはできても、倒すだけの力が足りない」
「えぇ……? ムカデ!?」
ぞわりと冷たいものが走る。姿は見えない。それなのに、背筋を無数の脚が這い上がってくるかのような錯覚に襲われる。何と悍ましいことか。あの蟲の姿を直に見ずに済んだことが、せめてもの救いだった。
地面の奥で何かが擦れるような、かすかな振動が伝わる。
「……それで、呼んでいるのかもしれないな。本物の九頭龍を」
その声音は推測でありながら、確信を帯びていた。九つの頭を持つという、伝承の龍。甘露を降らせ、天より祝福を授けるという存在。
なるほど、白練様は自らの力で“格上”を招こうとしているのか。
「来ますかね……」
小さく問うと、朔夜は懐からそっと何かを取り出した。
「どうかな……。これが役に立つと良いけれど」
開かれた手ぬぐいの上には、淡く黄緑に透ける花弁が幾枚も重なっている。雨に濡れた若葉のような、柔らかな色。
「珍しいですね。黄緑の花弁なんて」
「これは御衣黄の花弁だよ。神が降り立つ御神木の花」
その声は、半ば祈りのようだった。朔夜が風を呼ぶと、見えない流れが花弁を掬い上げ、白龍のもとへ運んで行く。
「胡和ちゃんは軒に入った方がいい。風邪を引いてしまうよ」
こんな状況でも、私を気遣う声。御堂の方へと促されながら、私はもう一度空を仰ぎ見た。
白と黒に割れた天の狭間で、白龍が光へ向かって舞い上がる。花弁は鱗に溶け込み、ところどころに萌黄色の灯をともしていた。それはまるで、龍そのものが春を纏ったかのようで。
――呼応している。
白練様が身を粉にして龍を呼ぼうとしているのに、このまま私だけ安全圏に居て良いものだろうか。
胸の奥が、じりじりと焦げるように熱い。
その時──
空気が震え、天の奥で何かが目を見開く気配がした。
天高く、空を裂くような咆哮が轟く。白練様のものではない、もっと澄み切った、悲しみと慈しみが溶け合うような声。慟哭にも似た声に、私は思わず天を仰ぐ。
「朔夜さん、あれってもしかして……?」
言葉を発するよりも先に、空が変わった。雲間が割れ、幾筋もの光が差し込む。その中心から、かの龍が姿を現した。
白練様よりもなお淡く、無色透明に近い白。その身は実体と幻の境界を漂うかのようで、輪郭すら定かではない。
降りしきっていた雨は、不思議と肌や布地を濡らさない。触れた瞬間に弾かれ、玉となって地へ還っていく。
──これは、ただの雨ではない。
その証のように、庭木や野草が一斉に息を吹き返す。葉脈は光を携え、花弁は色を深め、地面に伏していた若芽は緩やかに身を起こした。
世界は、まるで呼吸を取り戻したかのように、色鮮やかに浮かび上がる。
正に────恵みの雨。
なんて、美しい光景なのだろう。
なんて、美しい世界なのだろうか。
「俺も、姿を見たのは初めてだ」
遠い昔、管理神より仰せつかった言葉が脳裏を過ぎる。九頭龍の降らせる雨は──その雫を浴びた草花は、いっそう生命の輝きを放ち、それを目にした者の心の乾きまでも潤してくれる、と。
なるほど──確かに。胸の奥にひび割れていた何かが、静かに塞がっていく。
焦りも、疲労も、長年背負ってきた責務さえも、今この瞬間に溶けていくようだった。
涙が零れたことに、しばらく気付かなかった。濡れない雨の中で、頬だけが熱い。この歳になってなお、感動という言葉に心震わせる日が来ようとは。
長くこの仕事を続けてきた自分が、まるで祝福を受けているかのようで。降り注ぐ光と雨の中、俺はただその場に立ち尽くしていた。




