雨の言葉
「とりあえず、御堂内へ戻ろう」
低く短い声音。反論する暇もなく腕を引かれ、私は再び御堂の敷居を跨いだ。
“何か”がいる。そうとしか言いようのない気配が、結界の外に蔓延っていた。肺に絡みつくような圧迫感と、耳鳴りに似た騒めきが遠くで渦巻いている。
「白練様……?」
不安を滲ませると、彼女は一瞬だけ振り返り、いつもの調子で肩を竦めた。
「驚かせて、すまなかったな。でも此処が一番の安全地帯じゃ。先ずは策を練ろう」
そう言って彼女は、懐からとある巻物を取り出した。年季の入った和紙に、見慣れぬ紋が墨濃く描かれている。
「これは……?」
「胡和は恐らく見えておらぬと思うが、結界の外に馬鹿でかい蟲が居てな。これは、そやつを追い払う為に使う道具じゃ」
白練様がそう仰るのなら、きっと事実なのだろう。虫嫌いの私は目に見えなくて良かったと、心底胸を撫で下ろす。
「虫……? というと」
「ただの虫ではない。瘴気を喰ろうて肥えた、厄介な代物じゃ。本来なら弓で対峙するのが妥当だが、生憎そのようなものは扱えぬのでな。代わりに、雨を降らせようと思う」
白練様は写経用の墨と筆を拝借し、巻物へと静かに筆を走らせた。筆先の紙を擦る音が、やけに澄んで響く。
「文字書きは不得手じゃが、多少は効力を発揮してくれるじゃろ」
墨で連ねられた文字の上に、小さな雫がふわりと浮かび上がる。まるで言葉そのものが、水を孕んだかのように。
『一雨潤千山』
「ひとしきりの雨が、無数の山々や草木を等しく潤す、という意味じゃ」
"釈迦の教えは、雨が偏ることなく全てを潤すように、平等に与えられる"という内訳を秘めているそう。
御堂の中に、淡い水気が満ちていく。結界の外で蠢く“何か”が、ほんの僅かに後退した気がした。
「初めて聞きました。面白い言葉ですね」
「胡和も書いてみるか?」
差し出された筆を、私は恐る恐る受け取る。こんなに珍妙な道具は、この五都くらいでしかお目にかかれないだろう。
「雨に纏わる言葉……」
筆を構えながら、ちらりと白練様を見やる。白銀の耳が微かに揺れ、私はふと思い浮かんだ言葉を綴った。
『狐の嫁入り』
晴れているのに雨が降る、お天気雨のこと。
墨が乾く前に、ぽたりと一粒、紙の上で小さな光が弾けた。
「なるほど、我がお嫁に行く時も降るかの?」
白練様がくすりと笑う。
「それは、どうでしょうか」
もし白練様がお嫁に行ってしまったら──
きっと私の心は、今の空よりも曇ってしまうだろう。
「この調子で書き進めようぞ!」
私たちは筆先に硯の墨を含ませ、再び巻物へと向かった。甘茶の香りと墨の匂いが、緩やかに混ざり合う。
外では瘴気が渦巻き、内では言葉が雨を生む、嵐の前触れのような静けさだった。




