花祭り
春。色とりどりの花が咲き誇る、朗らかな季節。気候も過ごしやすく、私は春が比較的好きだった。それはこの都とて同じこと。
芸亭の司書の試験にも無事に合格し、先日の読み聞かせ会も成功を収めて、仕事は順風満帆。最初はどうなる事かと思っていたけれど、案外楽しく暮らしている。
綺麗な宿の一室に寝泊まりし、朝晩のご飯も絶品。現世の都会の騒々しさとは打って変わり、とても静かで優雅な日常。高いビルもなく、(何なら、この旅亭がこの平安で一番高い建築物)私の部屋の窓からは虹色に輝く雲が青い空を占め、それはそれは幻想的な眺めであった。
この都の"平安"は神様やあやかしの別荘地ということらしく、人気も普段から少ない為、通りも静かである。
さて、唯一賑やかなのはこの御方。
「胡和〜! 遊びに来たぞ〜。今日は花祭りに行こう!」
そう言って、桜色の便箋を懐から取り出す白練様。
「花祭りって、何処かで催しでもあるんですか?」
「何じゃ、胡和は知らぬのか」
そう言って、白練様は花祭りの由緒について語り聞かせてくれた。今日、四月八日はお釈迦様の生誕日。花で飾られた花御堂内の誕生仏に甘茶を注いでお祝いする、正式には灌仏会と呼ばれる仏教の伝統行事らしい。
「なるほど、初めて知りました」
「奈良時代からの伝統あるものだが、今回は鎌倉の寺院に招待されてな。ほれ、摩天楼の庭守である彼奴が花の選定を任されておって、そのご縁で我も呼ばれたのじゃ」
摩天楼の庭守というと、以前お会いした作務衣姿の男の人、名は確か朔夜と言っただろうか。
その後、私は眠ってしまったため、彼とは二言三言しか言葉を交わせなかった。
見た目も爽やかな好青年で、何処ぞの鬼神も少しは見習ってほしい……などと思ってしまう程、親しみやすい雰囲気であった。
「朔夜さんにも、もう一度ご挨拶したいですし、早速参りましょうか」
白練様と私はいつも通り、桜の花で飾った花車で空を駆ける。彼女と遠出をする時は、決まってこの乗り物で、私達は心地良い日差しを浴びながら、鎌倉を目指した。
「鎌倉は、工房や寺院が点在していてな。山に囲まれた土地じゃから、江戸や大正に比べるとひとの往来は少ない」
上から見下ろすと、平安の寝殿造とはまた違った風貌の屋敷が並んでいる。その周囲には堀が巡らされ、網代編みの竹垣などで囲まれた武家屋敷。敵からの襲撃に備えた様式に、住まいも変化していったのであろう。
さて。私たちは花祭りが執り行われるという、大報恩寺へとやって来た。鎌倉時代に義空上人によって開創されたお寺らしい。現世では、千本釈迦堂の通称で知られている。
御堂内には色とりどりの花が添えられた、花御堂が安置されていた。桜、菜の花、金魚草、金盞花にカーネーション。
「お釈迦様は、ルンビニの花園でお生まれになられたとかで、それに見立てて花を飾っているそうじゃ」
「お花に囲まれた場所で生まれるなんて、素敵ですね」
その花御堂の中には、小さなお釈迦様の立像があった。右手は天を、左手は地を指さし、「天上天下唯我独尊」と唱えたまさに、その瞬間の姿を象ったもの。"唯我独尊"は傲慢な態度を表す四字熟語として使われることもあるけれど、本来の意味とは違う。
『生きとし生けるものは誰もがこの世にひとつの尊い存在である』というのがお釈迦様の意図するものらしいので、私はこの言葉を好いている。
「このお釈迦様に、甘茶を掛けるのですか?」
「そうじゃな。柄杓もあるし、掬って掛けてみよ」
ひたひたと注がれた甘茶はお釈迦様の身体を潤し、やがて雫となって足元へ伝い落ちて行く。神聖な空間に身を置いていると心が鎮まっていくようで、胸の奥まで澄み渡るような心地がした。
「何でも九頭龍が、天からお釈迦様の頭上に『甘露の雨』を降り注いでお祝いしたという伝承があっての。それになぞらえて甘茶を掛けるそうじゃ。運が良ければ、この五都でも見られるやもしれぬ」
「くずりゅう……? ですか」
なかなか聞かない名だが、その名前の通り頭が九つある龍らしい。
「まさか、本物の龍が?」
「まぁ、ここは現世よりも天界に近い場所じゃから、多少珍しい輩が現れても、不思議ではあるまい」
私たちは本堂の廊下へ出て、空を見上げた。澄んだ春空が広がるばかりで、龍の姿らしきものは見当たらない。
──けれど、それよりも気になる事が一つ。
「白練様、この御堂は普段から人が少ないのでしょうか?」
「いや、そういえば住職も朔夜も見当たらぬな。気配もせぬし」
本堂の障子は開かれ、机上の湯呑みからは、まだ湯気が立ち上っている。つい先程まで、誰かが其処に居たかのようなのに。
──ぐらり。
その時、足元が僅かに揺れた。
「地震……?」
最初は小さな横揺れ。だが次の瞬間、どん、と地を突き上げる衝撃が走る。廊下の柱が軋み、天井から細かな埃が舞い落ちた。
「ただの地震ではないな」
白練様の声が低く沈む。揺れは周期的ではなく、どこか脈打つようだった。まるで巨大な何かが、地の底から地面を叩いているかのような。
「もしや、結界の外に何か……」
境内を覆っているはずの結界。その外縁が、空気の歪みとなってうっすらと浮かび上がる。透明な膜の一部に、亀裂のような光が走った。
その刹那──
「胡和には、見えておるか……?」
白練様の視線は、空の一点を射抜いている。
「いえ、何も……」
一体、何がどうなっているのか。白練様には何が見えているというのだろうか。
私は身を縮こませ、冷えた廊下に倒れ伏す。地の鼓動が止むのを、只じっと待つことしか出来なかった。




