読み語り
トップバッターは、余花さんの朗読による『猫町』で、没入感のある物語の方が良いだろうと最初に据えた。
「ええと……、それでは早速。一冊目に私が読むのは、萩原朔太郎の『猫町』です」
その言葉を境に、館内はしんと静まり返る。余花さんの落ち着いた声だけが、緩やかに空間を満たしていった。子供達も最初のうちは集中力が高いのか、身じろぎ一つせず、その声に耳を澄ませている。
物語は、主人公である「私」が、Kという温泉地からU町へ向かう途中、山中で道に迷う場面から始まる。やがて麓へと下り、美しく整った町へと辿り着く───
穏やかな町の風景が描写される一方で、言葉の端々には、説明のつかない緊張感が滲み始める。
まるで、見えない糸が少しずつ心臓を締め上げるかのような、不穏な空気。私はその感覚に、ほんの僅かだが戸惑いを覚えた。物語が語られるにつれ、見知らぬ町の気配が濃くなっていく。やがて、現実との境目が曖昧になり、余花さんの声さえ、何処か遠くから響くように感じられたその瞬間。
張り詰めた空気を切り裂くように、
「───今だ!」
その刹那、黒い影が視界の端を掠めて空中を横切る。
「ねこみみだ〜!」
「ネコになってる〜!」
ざわり、と会場が揺れる。気付けば、館内にいる全員の頭に、ふさふさとした猫耳が生えていた。
「ね、猫に!?」
「しーっ!」
演出の内容を聞かされていなかった私は、ざらめさんと照葉さんに注意されつつ、口を抑える。
これは所謂、妖術というものだろうか。まさか、あのやる気の無さ全開だった余花さんが、こんなに粋な演出を用意していたなんて。
朗読は、そのまま続いている。猫耳の根元は、じんわりとした熱を帯びて、その体温の伴った感覚にぞくりと背筋が粟立つ。まるで本当に物語の世界に入り込んでしまったかのようで。
此処は芸亭の一階で、読み聞かせ会の最中で───
そう理解しているはずなのに、頭のどこかで「猫町」の石畳を踏みしめている自分がいる。
私は、周囲を見渡した。子供も大人も、皆どこか夢を見るような表情で朗読に耳を傾けていた。
──────静かに心を落ち付けながら、今一度目を見開いて、事実の真相を眺め返した。その時もはや、あの不可解な猫の姿は、私の視覚から消えてしまった。
まさに、地の文通りの事が起こっている。あの猫耳は跡形もなく消え、私たちは何事もなかったかのように、普段通りの姿へと戻った。
『猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙のあるどこかに、必らず実在しているにちがいないということを。』
余花さんの声が、その最後の一文を静かに結ぶ。次の瞬間、館内にパチパチと拍手の音が木霊した。
「すごかったね〜!」
「おもしろかった〜!」
子供達も感嘆の声を上げながら、小さな手を一生懸命に叩いている。その光景を見て、胸の奥がほっと緩むのを感じた。
「余花さんって……、あんなことも出来たんですか?」
思わず漏れた私の驚きに、ざらめさんがいたずらめいた声で耳元に囁く。
「余花さんは、火車という妖なんですよ」
「……かしゃ?」
後になって調べてみたところ、火車とは、葬儀の折に現れ、死体を奪い去る猫の姿をした妖怪として知られているらしい。
なるほど。もしや余花さんは、猫と浅からぬ縁があるからこそ、この物語を選んだのだろうか。
そう思うと、『猫町』の余韻が、より深く胸に染み入る気がした。
「さぁ、次は私ね。『桜ん坊』始まり、始まり〜」
二番手は照葉さんの読む『桜ん坊』で、オチのある滑稽なお話。中弛みを防ぐ為にも、真ん中に持って来たのだ。
古典落語の演目『頭山』として知られる。
ケチな男の頭に咲いた桜が人気を集め、最終的には頭に池まで出来てしまうという、何とも奇天烈な話。
今度は照葉さんが頭に桜木を生やしながら、朗読している。これまた妖術で幻覚を見せられているのか、読み進める度に彼女の頭の桜はヒラヒラと美しく舞っているのだ。
もはや、二人とも読み聞かせの域を超えている。いくら何でもやり過ぎではなかろうか。これではトリである私が浮かばれない。私は妖術も神通力も使えない、極普通の人間なのだ。何の演出も幻想も面白さも用意していない、一般的な朗読を最後に持って来て、子供達に呆れられてしまうのでは……。
と、不安が頭を覆い尽くす中、照葉さんの朗読はいよいよ最終場面へと差し掛かった。
『我慢に我慢を重ねたけれど、うるさくて敵わない。もう辛抱ならないと、この男は、しまいに自分の頭の上の池に身を投げたのでした』
照葉さんはそう言うと文字通り、首を長くする。スルスルと伸びていく首は、しなやかな弧を描きながら足元へと降りて行き──
次の瞬間、本当に「頭の上の池」に飛び込むようにして、照葉さんの姿は忽然と消えた。
「な、何いまの……。ろくろ首?!」
本来なら、「どうやって頭の上に身を投げるんだ〜」と野次が飛んで来そうなものだが、よく考えたものだ。
なるほど、ケチな男はろくろ首だったのか。いや、実際のところは分からないが、見事な演出に拍手喝采。
「次はいよいよ、胡和ちゃんの出番ですね〜! ファイトです!」
「精々、頑張りなさいよ〜」
二人の声援に応えられる自信が無い。今すぐ私も池に身投げして消えたい──そんな衝動を必死に飲み込みながら、私は照葉さんからバトンタッチ。
「えー……っと、最後は『つきのうさぎ』です」
微かに声が震えるのが、自分でも分かる。人前に立つのは私が和雑貨店に勤めていた一昨年以来で、緊張は最高潮に達していた。
「胡和ちゃんなら、大丈夫だよ。たくさん練習したんだから、いつも通りにね!」
私の膝に触れ、そっと励ましてくれる卯月。温かい体温が伝わって、心の澱が静かに解けて行くみたい。私は軽く頷きながら、卯月とふたり並んで椅子に腰掛ける。
このお話は平安時代末期の説話集『今昔物語集』の巻五に記載されており、また良寛がこれを元に万葉風の長歌を詠んだことでも知られる。
あるところに、兎と狐と猿が、仲良く暮らしていました。神様は、その三匹が誠の心を持っているかを試そうと考え、お腹を空かせた旅の老人の姿となって、彼らの前に現れます。
倒れ伏す老人を見て、猿は木の実を拾い集め、狐は川原へ走って魚を咥えて戻ってきました。
けれど兎だけは、差し出せるものが何一つ無く、胸を締めつけられる思いで立ち尽くしていました。
そして──兎は、ある決意を下すのです。
「お猿さん、どうか柴を刈ってきてくれないでしょうか。お狐さん、それを焚いてくれませんか」
卯月が紡ぐ言葉が生きるように、私はそっと橋を架ける語部として物語を紡ぐ。
──────お猿さんは言われた通り、山へ駆け戻ると、乾ききった枯れ枝を幾束も抱えて戻って来ました。それを、うさぎさんの目の前に丁寧に積み上げます。
お狐さんは懐から火打石を取り出し、静かに擦り合わせました。火花が散り、やがて枯れ枝に小さな炎が生まれ、ぱちぱちと音を立てながら燃え広がります。
その炎を見つめながら、うさぎさんは一歩、また一歩と前へ歩みを進めました。
「私はお猿さんのように木に登ることは出来ません。狐さんのように川を泳いで魚を捕ることも出来ません。何も差し上げることは出来ないので……、代わりに私の身体を食べてください」
──────こうして、ごうごうと燃え盛る炎の中へ、うさぎさんは自らその身を投じたのです。
そうして、卯月が炎の中へ飛び込む素振りを見せた瞬間、淡い光がふわりと広がり、辺り一面を包み込む。金色の粒子がはらはらと宙に舞い、静かに場の空気を変えていく。
私は、その光が完全に消えきるのを待ってから、再び物語を読み進めた。
これを見たお猿さんもお狐さんも、あまりの出来事に声を失い、やがて堪えきれず涙を流しました。全てを見届けていた老人は、元の神様の姿に戻ると、うさぎさんを哀れみ、月の中に甦らせることにしたのです。
炎の熱も痛みもない、夜ごと世界を見下ろす、静かな場所。目を凝らすと、その白い光の中に今もなお、誰かのために身を捧げようとした小さなうさぎの姿がそっと浮かんでいるのです。月が欠けても、雲に隠れても、うさぎさんはずっと其処にいます。
姿形が見えなくとも誠の心は消えないのだと、静かに語りかけるように。今夜、空に昇るお月様の中に、きっとうさぎさんの影が見えることでしょう。是非皆さんも思いを馳せて見てみてくださいね。おしまい。




