第99話:当たり前の外側、あるいは田辺慎一の流儀
「そんなこと、考えてなかった。
……図星だよな?」
押し黙る幼なじみ。
まとっていた怒気が泡のように弾けていく。
俺が横丁の電気屋さんの看板を任されたとき、これが答えだ、と作ったモックアップを銀さんに見せた。
そのとき言われた、ガツンと響いた言葉を思い出す。
『もしその答えが相手の求めてるもんじゃなかったら、その労力は全部ドブに捨てんのと一緒だ』
もし、陽菜が瑞恵さんからかけ離れた雰囲気の女性だったら。
せっかく塩浜さんと作品の方向性を合わせるために、たたかれ台を五枚も描いたのがムダになってしまう。
「俺と陽菜の間で済むなら、モデルは陽菜一人でいい。
でも、そうじゃないじゃないか。」
キコッ……
キィ……キィ……
立腹少女の怒気が収まったので、ようやくブランコから立ち上がれた。
強張った身体をうーん、と伸ばす。
「だから、全てをムダにしないためにも、別のアプローチでも準備しておきたいだけなんだよ」
陽菜はまなじりを下げ、うつむいたまま下唇を噛んだ。
街灯に照らされて柔らかく光るポニーテールの穂先が、うつむく彼女の首元を撫でている。
「だけど……! 私だって、ともくんの力になりたいって……
私が保証するって言ったのに……」
彼女の潤んだ瞳が、俺の胸の奥をチクリと刺す。
横丁でデートした日の出来事を陽菜がどこまで察しているかはわからない。
ただ、女の子たちに捕まりまくったあの日、陽菜は俺の胸元で自分以外の女性の匂いを敏感に嗅ぎ取った。
思わず、ポケットに入っている定期入れを握る。
鈴江ちゃんが俺のことを名前で呼び始めたことだって、真っ先に気づいたじゃないか。
きっと、典子先輩が俺に向ける「視線」だって、その異質さを、彼女は敏感に感じ取っているのだ。
だからこそ、俺の絵のモデルという、ある意味で「特別な関係」に典子先輩が入り込むのが我慢ならないのだろう。
「……陽菜」
俺は、彼女の肩にそっと手を置いた。
ビクッと震えた彼女の目を、真っ直ぐに見据える。
「依頼しているのは、塩浜さんだ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、渇いた響きを持っていた。
『いいか、坊主……
仕事が正しいかどうかはな、最終的に発注主が決めるもんだ』
銀さんの最後の教えが頭にこだまする。
俺が、美大生たちの作ったピカピカの招き猫が横丁にそぐわない、と言ったときの言葉だ。
対価というモノが発生する以上、最終的に良いか悪いかを決めるのはお金を払う依頼主だ。
横丁の壁や小道具たちを塗り、保土ヶ谷さんたちの無理難題と渡り合った「職人」としての銀さんの教えだった。
「これは学校の課題じゃない。……仕事なんだ。
全部、陽菜だけをモデルにしたデッサンで進めて、もし塩浜さんの記憶の琴線に触れなかったら……」
「やり……なおし?」
不安そうな恋人にうなずく。
「やり直しだったらまだ良い。
最悪はもう二度とチャンスがないかもしれない」
「そんな……」
「だから、塩浜さんからゴーサインをもらうためには、考えうる限りの『質感』のバリエーションを手元に用意しておかなきゃならないんだ」
陽菜の肩から俺の手に伝わる、気持ちの震え。
いつもなら街灯の光で鈍くきらめく瞳は、色がくすんで、まるで光を吸い取りそうだ。
「……わかってる」
陽菜は、消え入りそうな声で呟いた。
アスリートである彼女なら「準備の重要性」も「本番の厳しさ」も、痛いほどわかっているはずだ。
そして、一度チャンスを逃すと、そう簡単には再びチャンスが訪れないことも。
少し前の陽菜が同じことを聞いたなら、物わかり良く割り切っているだろう。
しかし、今の陽菜にはそれができない。
できないのではなく、したくないのではないか。
「わかってるんだよ……だけど……」
ガチャ……キィ……。
俺が恋人の肩からそっと手を外すと、二人してブランコに腰を下ろした。
「ともくんが描くから、私だけがモデルなのが当たり前だと思ってた」
キコッ……キコッ……
キッ……
「……でも、当たり前が当たり前……じゃないんだね」
陽菜は暗くなった空を見上げてつぶやいた。
当たり前が当たり前じゃない。
陽菜の姿が俺の問いかけにポツポツと答えた田辺先輩の姿と重なる。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
陽菜の怒りは、俺を信じてくれているからこそのものだ。
でも、仕事である以上、俺は「質感の嘘」をつき通さなきゃならない。
数日前、俺はある人物に連絡を取った。
小見山高校の購買部のエース、田辺先輩。
彼なら、俺の知らない「空気」を教えてくれるはずだ。
次回、第100話『柊珈琲店の会談、あるいは慎一の真意』
先輩、……俺に、本気の覚悟を教えてください。




