第98話:泥の中の救済、あるいは典子と慎一の未来
「人の顔には、その者が歩んできた道が地図のように刻まれている。
シミの一つ、皺の一本を疎かにする者は、決してその人間の『魂』に触れることはできない。
真の肖像画とは、美しい仮面を描くことではない。
その者が流した泥の汗と、愛した者へ向けた熱を、キャンバスの上に呼び戻す『降霊術』なのだ。」
— 狩野 宗玄『色彩の情念:日本画における感情と技法』より
「……こちらは……かすみがうら市教育委員会です……
子どもたちはおうちに帰りましょう……大人のみなさんは……
見守りをお願いします」
音楽とともに、公園のスピーカーからアナウンスが流れる。
「じゃあね!バイバイ!」
「また明日!」
パタパタという足音と歓声とともに、小学校低学年らしき子どもたちの姿が遠ざかる。
キイ……キイ……。
音に合わせて、ブランコに座った俺の影が揺れて、伸びる。
もう少ししたら、この公園はオレンジ色から暗闇に変わり、公園は俺たちの貸切となる。
「そろそろ、かな」
スマホで残響画廊のイラストをぼんやり眺めながら時刻を確認する。
いつもなら、部活を終えた陽菜が弾むような足取りで現れるはずだ。
そして、しばらくの間、お互いを抱きしめあって、他愛のない話をするのが日課だ。
今日は俺から「話がある」とメッセージを送ったのだが、既読がついてから、彼女から返信はなかった。
ギギーッ!
ガチャンっ!ガチャガチャ!
ダダダダッ!
自転車を停め、カゴから荷物を出しこちらに向かう、聞き慣れた所作の音。
ただ、今日はずいぶんと荒っぽい。
砂利を蹴り上げる、力強い足音が近づいてくる。
「お、来たかな……」
顔を上げると、ロイヤルブルーのジャージ姿の陽菜が、息を切らして走ってきた。
その顔は、いつものように俺を見つけて花が咲くような笑顔ではない。
眉を吊り上げ、唇をギュッと引き結んで、明らかに不満そうなのは、薄暗い中でもよくわかった。
「……ともくん!」
ブランコの手前で仁王立ちした彼女は、いかり肩で俺を睨みつけた。
街灯に照らされた彼女のシルエットの奥で、ポニーテールの穂先が炎のように揺れている。
「お疲れ、陽菜。ごめん、急がせちゃったか……」
「急ぐもなにも……
ねぇ! 瑞恵さんのモデルを、典子先輩にも頼んだって、どういうこと!?」
俺が言い終わらないうちにまくし立てられる。
ついたばかりということと、立腹の興奮で、陽菜は荒い息のまま、俺にノシノシと詰め寄った。
殴りかかるのか、という勢いで距離を詰める恋人。
不死鳥のような爆ぜる激情を隠そうともしない。
一方で目の前の同一人物が、甘い蕩けた顔をして俺に抱きつくのことがあるから、面白い。
「なぁにニヤニヤしてんのよ!
真剣に怒ってるのよ、わ、た、し!!」
ブランコに座っている俺に屈むように睨む、真っ赫な顔の幼なじみ。
目の前の彼女から、熱を帯びた体温と、制汗剤の爽やかな香り、そしてほんの少しの汗の匂いが混ざり合った、甘やかな恋人の香りが漂ってくる。
俺はブランコに座ったまま、小さく息を吐いた。
塩浜さんも創業したときは、こんな風にお客さんから詰められたことがあったのだろうか。
「なんで黙ってんのよ!ちゃんと説明してよ!」
彼女が怒るのも無理はない。
塩浜さんの奥さんである瑞恵さんの肖像画を描くにあたり、陽菜は俺に「困ったときは半分こしてほしい」と伝え、俺の作品のクオリティに「ともくんが描くんだもん、私が保証する」と背中を押してくれた。
陽菜の性格からして、そんな経緯があれば、モデルは自分だけだと思っていたのだろう。
そこに、あの典子先輩の名前が挙がったのだ。
尊敬する先輩だけど、面白いはずがない。
「……メッセージで送った通りだよ」
俺は努めて冷静な声を出した。
「陽菜だけをモデルにして、五枚のデッサンを進めてさ……
もし塩浜さんが『ワシの記憶の中の瑞恵と、なんか違う』って言ったとしたら、どうなる?」
「……!!」
つり上がった眉の角度が丸くなった。
【担当:神栖陽菜(アスリート/幼なじみ)】
「ともくんが描くんだから、私がモデルなのが当たり前だと思ってた」。
私の独占欲が、ともくんのプロとしての覚悟を邪魔しちゃうのかな。
分かってる。
分かってるんだけど……どうしても、心がザワザワするの。
次回、第99話『当たり前の外側、あるいは田辺慎一の流儀』ともくん……その「別のアプローチ」って、なに?




