第97話:夕陽に染まる教室と、陽菜の全肯定
数日後の放課後。
静まり返った教室で、陽菜と隣り合って座る。
「三枚目……四枚目……五枚目。
この中で塩浜さんと相談しながら絞っていくつもりだよ」
まだ書き込みが足りない部分もあるけど、見たい見たいとせがむ陽菜に応えて、デッサンを見せることになった。
並べた画用紙を窓から差し込む夕陽が、オレンジ色に染めている。
俺の隣で、ジャージ姿の陽菜が、祈るような手つきで画用紙を見つめている。
よほど見たかったのだろう、部活の練習も早く切り上げて、息を切らして教室に駆け込んできたのだった。
「……わあ。瑞恵さん、すごく素敵な人だったんだね」
五人の瑞恵さんを見た陽菜の瞳が潤んでいるのを見て、俺の胸の奥が温かくなった。
「この写真だと少し緊張してるみたい。
だけど、ともくんのデッサンだと、なんだか笑いかけてくれてるみたい。
……きっと、優しい人だったんだろうな」
写真と塩浜さんのスケッチブックを参考にして描ききれない部分は、俺が撮った陽菜の写真をモデルにして描いているが、その事で騒がれても面倒なので黙ることにした。
「できあがりが……本当に楽しみ///」
陽菜が、画用紙の端を愛おしそうになぞる。
「ともくん、瑞恵さんにちゃんと『会い』に行けてると思うよ。
……頑張って」
陽菜は照れ隠しのように俺の頬に軽くキスをして、小さく笑った。
その夕日に照らされた笑顔は、俺を心から信じている、と気持ちが溢れ出ているように見えた。
陽菜にデッサンを見せてから一週間。
日立先生のアトリエで、いつものように居残りデッサンだ。
レッスンが終わり、ゴソゴソと準備を始めようとした時、塩浜さんが申し訳なさそうに帽子を手に取った。
「すまんな、灯くん。今日は急な会合が入ってしまってな。
話すのはまた次にしてもらえんか」
「あ、はい。わかりました。
お忙しいのにすみません」
「本当は、君とゆっくり喫茶店で昔の話をしたいのだが……
この歳になってもまだ面倒な付き合いが多くてな。
おっと、また叱られるな」
塩浜さんは、隣で静かに控えていた大野さんの視線に苦笑いし、背中を丸めてアトリエを出ていく。
多忙な老人に一礼すると、当人が不意に歩み寄ってきた。
「……どうしたんですか?」
塩浜さんは俺にコショコショと耳打ちした。
「つくばちゃん……なんかあったのか?
妙に明るいが……?」
塩浜さんの視線の先にはヴィーナス像の前に立ち、何かを呟きながら鉛筆を動かしているつくばさんの姿があった。
「深い……光……ここは……影を……」
それは以前のような、「念仏」ではなかった。
彼女の声は、リズムを刻み、メロディを帯び始めていた。
それはまるで、自分自身の内側から湧き上がるイメージを、肯定していくような楽しげな「詠唱」、あるいは「祈り」のように聞こえる。
それは、もはや誰かに依存して「美」を搾取するための呪文ではなかった。
不思議がる塩浜さんと大野さんに向き直る。
「なんでしょうね……?僕も思い浮かびません」
やれやれと苦笑しながら、塩浜さんたちは俺に手を振りながらアトリエを出て行った。
「さて……瑞恵さん……こんばんは」
つぶやきながら、イーゼルに画用紙をセットして、つくばさんを振り返る。
一瞬視線を合わせた美大生は、ニコッと微笑んですぐに手元に目を転じた。
彼女は彼女の道で、自らの「色」や「熱」と対話している。
つくばさんの道の上には、もう俺はいないのだろう。
つくばさんの楽しげな詠唱をBGMに、俺は瑞恵さんを呼び戻すためにイーゼルに向き合った。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
デッサンを見つめる陽菜の瞳が、潤んでいるのが分かった。
「できあがりが……本当に楽しみ」。
その一言で、俺の迷いは完全に消えた。
つくばさんもまた、自分の道で、自らの「熱」と対話し始めている。
さあ、いよいよ本番だ。
塩浜さん、あなたの瑞恵さんを……今、連れてきます。
次回、第98話『泥の中の救済、あるいは典子と慎一の未来』 先輩。……あなたの「情念」を、俺に貸してください。




