第96話:無機質な美の終焉、あるいは共犯者の卒業
彼女は俺にしがみつき、ワイシャツの襟元に顔を埋めた。
「……ああ……やっぱり。
もう、色も熱も入ってこない」
大きく息を吸い込んだ彼女が、絶望したように涙声で呻く。
『……坊主、あとはお前が自分自身で躓つまづいたり転んだりして学んでいくんだ』
銀さん、それはつくばさんにも言えることですよね、と内心でつぶやく。
俺は、銀さんに促され、陽菜と鈴江ちゃんに背中を押されて一歩踏み出した。
躓くことも転ぶことも承知の上だ。
もし、進む途中で疲れたり困ったりしたら、陽菜と半分こしてもらえれば良い。
俺は、そっとつくばさんを抱きしめた。
ひくっ、と震える姉の柔らかな身体。
「俺……自分自身に向き合って……
描く対象にも向き合って……
作品を創るって決めたんだ」
「灯くん……」
「お姉ちゃんだって……もう、一人で立ち上がっていけるよ。
俺……そう信じてる」
顔をシャツから離し、俺を見つめる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔は、無理に笑おうとして、また歪んだ。
歪ませたのは、さみしさか、悲しみなのか、俺には判断がつかない。
美大生が俺のワイシャツにしがみつき、顔をうずめる。
「……ご……めんね」
そのあとの言葉は嗚咽と共にかき消されてしまった。
俺を弟として可愛がり、そして画材としても頼っていたつくばさん。
本当は既に俺なんかを必要としないレベルであったはずだ。
しかし、陽菜と同様に、俺が持ち得る才能を引き上げる触媒のような存在であることを、姉は早くから知っていたのではないか。
『な、なんて、熱量がすごい素材なの……!』
文化祭に来てくれたとき、つくばさんはこう口走ったことを思い出す。
俺の持ち得る『力』に気づいてなくては、こんなことは言わないだろう。
しばらく背中を撫でていると、つくばさんはゆっくりと俺の胸から顔を離した。
ライトに照らされたラベンダーの前髪が小刻みに揺れる。
「……本当に、変わったね。
もう、私の可愛い弟じゃなくなっちゃったんだね」
陽菜に甘噛みされた小さなアザを、姉は名残惜しそうに指で撫でた。
首筋に指を当てられたまま、俺はうなずく。
いや、うなずかないといけなかった。
このまま、かわいい弟のままで作品を創れるほど、俺は器用ではない。
何より、そのままでは、銀さんや陽菜、鈴江ちゃんや塩浜さんの想いを冒涜するような気がしてならない。
ぷちゅっ。
「……!」
不意に唇が重なり、上唇が吸われる。
ちゅっ……ちゅちゅっ。
息が止まり、背中に回した腕に力が入る。
むちゅっ……はふっ……んちゅっ。
「んんんっ!……はぁっ……
お、ねぇちゃ……んむっ!」
さらに深く唇が重なり、まるで俺の中にある「何か」を吸い出すかのような姉。
背中を掴むようになで回されて、うっとりとした気分になる。
『ねえ、灯くん。これは芸術よ。
……この香りと共に、共犯になりましょう?』
横丁に初めて行った日。
バイトの手続きそっちのけで、つくばさんに迫られた。
あの時舌に落としていた口中香の香りを思い出す。
……ちゅぱあっ。
どちらからともなく離した唇の周りを手の甲で拭う。
「はあ……
はあ……
はあ……」
「……いつの間にか、キスも上手になったのね」
つくばさんは名残惜しそうに指先で俺の唇をなぞる。
「私の弟は、どこかに行っちゃったね……」
うつむいたつくばさんは、ゴシゴシと目の周りを拭うと、一度も振り返らずにアトリエの奥へと消えていった。
カチ、カチ、
カチ、カチ……
アトリエに、時計の秒針の音が響く。
もう、帰ろう。
何かを振り払うかのように片付けを始めた俺の手は、いつまでも小刻みに震えていた。
【担当:つくば(美大生/灯の「お姉ちゃん」)】
どうして? いつもなら、あなたに触れるだけでアイデアが湧いてきたのに。
今の灯くんからは、私には扱えない、泥臭くて生々しい「人間」の匂いがする。
……私の可愛い弟は、もうどこにもいないんだね。
これが最後。
あなたの熱を、匂いを、全部吸い出して……私は一人で歩き出す。
次回、第97話『夕陽に染まる教室と、陽菜の全肯定』 「ともくん、瑞恵さんにちゃんと『会い』に行けてると思うよ」。




