第92話:アトリエの残業と、お姉ちゃんの予感
『あなたは、私だけの『色』なのよ』
陽菜と横丁デートした日、バックヤードに俺を引きずり込んだつくばさんを思い出す。
あの時、犯行声明のように、俺に口紅たっぷりのキスをしたのだ。
一人っ子の俺は、小さい頃からつくばさんをお姉ちゃんと呼んでいて、彼女もまた、俺を弟みたいにかわいがってくれていた。
そして、俺を作品作りの『素材』としていたのだ。
『だけど、灯くんが絵画教室とか今日みたいに手伝ってくれたりして、私の近くにいるときに、びびっと閃くのよ。それも何度も……』
常陸野造形美大へ、つくばさんの手伝いに行ったときに言われたことだ。
その時は、つくばさん自身の才能だから自信を持って欲しいのに、と思っていたが、今はそう思えなくなってきた。
きっと、俺が近くにいれば、お姉ちゃんは才能が増幅されるのではないか。
そう思うと、彼女の言うことも辻褄が合うように感じる。
『いっそ、君を私のアトリエに監禁してしまいたい』
バックヤードに連れ込まれたとき、こうも言われた。
つくばさんは、大学の課題で苦戦しているはずだ。
あの時、妙な空気の中で囁かれたことではあるが、あながち熱に浮かれた言葉でもないのかもしれない。
つくばさんが何か言いかけたとき、俺のスマホがブブブと震えた。
内ポケットに手を添える。
バイブパターンで陽菜ということはすぐにわかった。
振動音はつくばさんにも聞こえているはずだ。
だいいち、口パクで「じゃあね」と言って手を振っているじゃないか。
でも、電話に出ながらアトリエを出るのも見送る美大生に失礼だ。
ブブブ、ブブブと震えるスマホをそのままにして玄関を出る。
背中に視線を感じて振り返ると、涙目のつくばさんが俺を見つめていた。
「え?あ……き、気をつけてね」
まさか俺が振り返らないと思っていたのだろう。
悲しそうな顔はほんの一瞬で、すぐにニコニコと手を振ってきた。
「出なくていいの?」
ブブブ……ブブブ……ブブブ
俺は苦笑しながら首を振る。
ニヤニヤするつくばさん。
「お姉ちゃん……じゃあね」
ガチャリとドアを開けて、早足で外に出ると、俺は「着信 : 神栖陽菜」と表示されているスマホの通話ボタンをタップした。
「……で? なんで今まで黙ってたわけ?」
取り調べのように詰問する恋人。
翌日の放課後、俺はモールの柊珈琲店に連行されたのだった。
「いや、あの、なんて言うか……」
「質問に答えて」
冷たい声でぴしゃりと叱られる。
困ったな、と思いつつもちょっと嬉しい自分がいる。
「なぁにニヤニヤしてんの!怒ってるの!わ・た・し!」
ブシュウウウウっ!
エスプレッソマシンの蒸気音が響く。
本人は押し殺しているつもりだが、元が体育会系なので、ばっちりお店に響いている陽菜の声。
店内をチラ見をする限り、俺たちの席の会話を他のお客さんはおろか、佐倉さんたち店員さんまでもが、耳をそばだてて聞いている。
周囲の視線に気付かない様子で、詰問する彼女。
「岩瀬さん、ともくんのこと、灯くんて呼び始めたでしょ。
ヘンだなと思ってあの娘に聞いたら……!」
お茶受けのクラッカーをボリッとかじって腕組みする幼なじみ。
「ニコッとして『絵師の灯くんのファンになったので』ってイラストサイト見せてきたんだよ!」
鈴江ちゃんが知っていて、陽菜が知らないのが彼女のカンに触ったらしい。
投稿を始めたのは陽菜と付き合うずっと前だから、知らせる必要もなかったけど、今のご立腹少女にそれを言っても逆効果だ。
「悪かったよ……でも、自信もないのに投稿してるとか、さすがに恥ずかしくてさ」
口の中がパサついてくる。
コーヒーを一口すすりたいけど、射貫く視線がそうさせてくれない。
「……すず……岩瀬さんが俺を『残響画廊』のTorchだと突き止めたのだって、本当に偶然だったんだよ」
幼なじみの目が据わる。
「……今、鈴江ちゃんって言いかけたでしょ?」
【担当:つくば(美大生/灯の「お姉ちゃん」)】
灯くんの隣にいると、私の才能は「色」を得る。
ずっとそう信じて、あなたを私の最高の「素材(弟)」にしてきた。
……でも、今のあなたは、私の知らない誰かの熱に侵されている。
ねえ、そのスマホの振動は……あの「看板娘」からの連絡なの? 行かないで。
私を、この冷たいアトリエに一人きりにしないで。
次回、第93話『柊珈琲店の公開処刑、あるいは嫉妬のラテ』 「質問に答えて」。陽菜の冷たい声が、エスプレッソの蒸気に混ざる。




