第91話:塩浜燃料店の原点、あるいは定食屋のまかない
走る鉛筆の線が、預かったスケッチブックの線を思い起こさせる。
あの、くいっと上がっていた口角は、照れ笑いの癖だろうか。
特徴的な目尻のシワは、暑い日も寒い日も働き続けた日々の記録だろうか。
『……これからは自動車の時代だって、有り金はたいて小さな燃料店を始めたんだ』
塩浜さんの記憶は、きっと絵の大切な『素材』になる。
俺は、そう考えて、レッスン後のわずかな時間を使って、瑞恵さんや塩浜さん自身の思い出を聞かせてもらうことにした。
噛みしめるように懐かしむ、老人の断片的な記憶。
『これからは自動車が産業の中心になる、と意気込んだが……
なかなか上手くいかなくてな』
『瑞恵はな、いつも行く定食屋の店員だったんだ。
……会社がどん底でも、あの笑顔に、ワシは救われた……』
塩浜さんが貯金や借金で始めた塩浜燃料店。
俺たちの地域で知らない人はいないTSEグループも、最初は小さなお店からスタートしたのだ。
『いつも貧乏そうにしていたのが可哀想に見えたのか、定食にこっそり一品つけてくれたんだ……
ありがたかったな』
後に、TSEグループの役員となった塩浜さんだったが、どんな高級料理を食べても、あの時のまかないより美味しかった料理はなかった、と言っていた。
「ワシもバカ舌だからな」とおどけていたけど、今の俺なら何となくわかる気がする。
思い出話をつなぎ合わせながら、瑞恵さんが取りそうなポーズを想像しながら、おおざっぱに描きこんでいく。
「……いや、まてまて」
手を止めて、腕組みして天井を見上げる。
考え方を変えた方が良いな、と思った。
塩浜さんがみたいのは『瑞恵さんが取りそうなポーズ』ではない。
むしろ『日常から切り取られた瑞恵さんのポーズ』が見たいんじゃないか?
そう考え直して、ポーズっぽい箇所に消しゴムを当てていく。
たたかれ台だから、修正があるのが前提だけど、最初からズレまくって戻りが多すぎるのも失礼だ。
少し修正して、遠目から見てみる。
描きこんでみないとわからないけど、いかにも、という構図ではない感じだ。
「……もう少し、話を聞かないと、自然なポーズにならないな」
また、塩浜さんにお願いしてみるか。
そんなことを考えていると、スリッパの音が聞こえてきた。
パタ……パタ……
「灯くん……そろそろ閉めるわよ」
振り向くと、アトリエの入り口に立つつくばさんがぼんやりと見えた。
「え?……あ」
時計をみたら、既に一時間以上経過していた。
塩浜さんの思い出を追いかけて鉛筆を走らせたら、アラームにも気がつかなかったわけか。
「すみません……もう、出ます!」
慌ててスポーツバッグに道具を放り込む。
「そんなに慌てなくていいわよ」
「いや……でも……」
苦笑するつくばさんにモゴモゴと返事をしながら、あせあせとキャリングケースにデッサンをしまい込む。
バッグとケースを抱えてつくばさんに視線を送り「帰り支度が済みました」と告げると、美大生はクルッと背を向けて、俺の退出を促した。
パタン……パタン
静まり返った日立家の廊下に、俺たちのスリッパの音が響く。
玄関まで来たら、つくばさんがぽつんと問いかけた。
「……順調?」
スリッパからローファーに履き替えながら、俺は正直に答えた。
「……どうかな……まずはザックリとしたデッサンを5枚用意して、塩浜のおじいちゃんにみてもらいます」
つくばさんは「あら」という表情をして靴べらを俺に差し出す。
「……鎌ヶ谷さん……銀さんに教わったやり方?」
そう、その通り。
俺は靴べらを返しながら、ニコリとつくばさんに向き直った。
「横丁の仕事をして……変わったね、灯くん」
受け取った靴べらを抱くように持った美大生の顔が、柔らかい玄関の照明のもとで徐々に紅潮していく。
「もう……ただの弟……じゃないね」
潤みかけた瞳は、ちょっとさみしそうに見えた。
【担当:塩浜重三郎(元県議会議員/茨城のドン)】
「ワシもバカ舌だからな」なんて、おどけては見せたがねぇ……。
瑞恵がこっそり付けてくれたあのコロッケ定食の味は、どんな高級料理も敵わんよ。
灯くん、君はよく聴いてくれた。
ワシが見たいのは「立派なポーズ」じゃない。
共に泥道を歩き、笑い、はしゃいでいた……あの日常の瑞恵なんだ。
次回、第92話『アトリエの残業と、お姉ちゃんの予感』 「もう、ただの弟……じゃないね」。つくばさんの声が、静かな廊下に響く。




