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【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第五章(最終章):未来キャンバスと、素顔の肖像画(ポートレート)

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第90話:銀さんの「たたかれ台」と、仕事の流儀

立ち上がり、イーゼルから画用紙を外す。

新しい画用紙に変えよう。


まずは粗いデッサンを5枚くらい描いて、塩浜さんから意見を聞いて、徐々に彼の思い描く瑞恵さんの姿をはっきりさせていくのだ。


以前の俺なら、一枚の画用紙に全てをつぎ込んで描くだろう。

しかし、横丁の仕事を経験した俺は『たたかれ台』を作って依頼主といっしょに作る大切さを銀さんから教わった。


『いいか。坊主。仕事ってのはな……

『戻り(リテイク)』をいかに減らすかが勝負なんだよ』


初めて横丁の看板デザインを任されたあの日。

自信作のモックアップを見た銀さんが言ったことを思い出す。


いきなり手間のかかった完成間近のものを持っていっても、依頼主がノーと言えばそれはムダ以外何物でもないのだ。

学校では頑張れば、違うものでも評価されていたが、仕事は違うことを思い知らされた。


がっかりした俺に、銀さんは厳しいけど優しい表情で言っていた。


『最初は『叩かれ(サンドバッグ)』を出せ』


『まずはざっくりとした 鉛筆書きの隙だらけの図面を出して、

『ここは違う』

『あそこはこうだ』

って客に言わせろ。』


粗い段階で、依頼主と完成イメージを合わせ、対話を重ねてだんだんと方向性を合わせていく。

後でこういうものを一般的に『たたき台』と呼ぶことを知った。

しかし、俺は銀さんの『たたかれ台』という呼び方が好きなので、教わったとおりに使っている。


真っ白い画用紙に大枠の構図を描きこむ。


自分の手で、過去の人物を浮かび上げる。

それはまるで、遺跡や化石の発掘を連想させた。


ただひとつ違うのは、俺が発掘するのはモノではなく魂だ。


再び鉛筆を手に取る。

依頼を受けると塩浜さんに告げた日、喫茶店で手にしたスプーンが重なる。


あの日、緊張のあまり、コーヒーにミルクと砂糖を必要以上にいれてしまい、クルクルと掻き回していたのだった。


『……やってくれるか。

本当に、アイツを連れてきてくれるんだな?』


あの時の塩浜さんは、いつもの「茨城のドン」としての威厳を、そして「絵を楽しんでいるおじいちゃん」の陽気さをどこかに置き忘れてきたようだった。


一瞬だけど、塩浜さんが恋するお兄さんに見えた。

まるで初デートのイエスの返事を友だち経由で聞いたような……。


依頼を聞いたときと同じ喫茶店。

再び塩浜さんと向かい合った俺は、依頼を受けることをはっきりと告げた。


『どこまでできるか、正直わかりません。

僕の技術はまだ未熟です』


あの時、テーブルの下で握りしめた手は、ぶるぶると震えていた。


『でも……全力でやります。

僕なりに解釈して、瑞恵さんをキャンバスに連れてきます』


言葉を選んだりすると決意が鈍りそうだったので、一気に言ってコーヒーをすすった。


恐ろしく甘く、脂っぽい。


ゴクリと飲み込んだ直後にもかかわらず、

すぐ喉が渇きを覚える。


塩浜さんは黙って腕組みをしたままつぶやき、噛みしめるようにうなづいた。

今までみたことのない、塩浜さんの柔らかな笑顔だった。


『そうか……。そうか……! そう……か……』


スマホがブーンブーンと震えた。

アトリエが閉まるまで、あと1時間を告げるアラームだ。


足元に置いた通学用のスポーツバッグを眺める。

その中には、塩浜さんから預かった、瑞恵さんへの想いが描かれた、スケッチブックが入っている。


もう、何度見返したことだろう。


塩浜さんが自身の手で描いた、何十枚もの瑞恵さんのデッサン。

お世辞にも上手いとは言えない。


だが、眺めれば眺めるほど、そのデッサンから、塩浜さんの執念や情念が、線の歪みとして叫んでいた。


「……立ち姿の方が、ずっと瑞恵さんらしいかもな」


誰もいないので、独り言がアトリエに響く。

このデッサンは立ち姿にしてみるか。

画用紙に構図の「アタリ」をつけて鉛筆を走らせていく。

【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】

最初から手間暇かけた完成品を持っていくのは、ただの自己満足だ。

銀さんが教えてくれた「戻りリテイク」を減らすための戦術。

それは、俺が瑞恵さんという女性を深く知るための「対話」そのものだった。


真っ白な画用紙に、過去の断片を浮かび上がらせる。

あの日、塩浜さんが見せた「恋するお兄さん」の瞳を信じて。


次回、第91話『塩浜燃料店の原点、あるいは定食屋のまかない』 会社がどん底だった時、彼を救ったのは一品の「おまけ」と、彼女の笑顔だった。

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