第137話:プロのケジメ、タクシー窓越しの清算
「……あの、こちらで大丈夫です」
俺が告げると、タクシーが静かに停車した。
いつもの公園の入り口である。
「少し……二人で歩いて帰ります」
降車した俺と陽菜を見送るように、助手席から大野さんが後部座席へと移り、塩浜さんの隣に座る。
バタン。
「じゃ、気をつけてな……楽しかったぞ。また、レッスンで」
ウィィィン……
パワーウィンドウが上がっていく。
俺は内ポケットに手を当てた。
渡すなら、今、だ。
「はい。今日は本当に、ありがとうございました……あの!」
「どうした」
俺は内ポケットから、少し薄くなった茶封筒を取り出した。
あら、という顔をする大野さん。
典子先輩モデルのデッサンにダメ出しをもらったとき、ファミレスで『画材を買え』と大野さんから渡されたお金だ。
「これ、お返しします。制作費として画材と……
モデルの食事代を引いたお釣りです。
レシートも中に入ってます」
「え!?ち、ちょっと!」
陽菜にペシンと肩をはたかれる。
「ははは。怒るな陽菜ちゃん。今日の君を見ていたら、わかる気がする」
茶封筒を受け取りながら、依頼主が陽菜をなだめる。
「だって……」
口を尖らせる彼女を見ながら、塩浜さんが俺に言う。
「陽菜ちゃんがメシをうまそうに食べる顔……
あれがなければ、瑞恵は呼べなかった。違うか?」
俺を振り返る幼馴染。
驚いているのが感覚でわかる。
「……はい」
「と、いうことだ。
だから、陽菜ちゃん……あまり灯くんを責めたらいかんぞ」
柔和な顔で立腹少女に釘を刺すと、塩浜さんは茶封筒をひょいと掲げた。
「制作費の残り、確かに受け取ったぞ」
「ありがとうございます」
「灯くん、自信を持ちなさい……
君は、もう立派な画家だ……では、な」
窓がしまると、タクシーが滑るように発車する。
テールランプが夜の闇に溶けていくまで、俺たちは並んで深々とお辞儀をした。
「……行っちゃったね」
俺の手を握った陽菜が、ポツリと呟いた。
「ああ。これで、塩浜さんの仕事も終わった」
大きく息を吐き出した俺を陽菜が小突く。
「もぉっ、あんなこと言わないでよ」
「だって、言っとかないと……
画材を買ったのに、ファミレスのレシートが出てきたら、いくらなんでも変じゃないか」
「妙なところ、マジメねぇ」
俺は、ずっしりと重い『ツダシゲ商会』のトートバッグを抱え直した。
仕事は考えうる最高の形で終わることができた。
ただ、中に入っているシガーボックスやペン軸という、時代を駆け抜けた人の想いが、品物そのものの重さより、ずっと重く感じられた。
『大金を渡したらロクなことにならない』と、塩浜さんは言ったけど、代わりに頂いたものの方が、よほど価値があるように思う。
「ちょっと、座るか?」
「うん、ちょっと、お腹いっぱいだから、座りたいな///」
いつもように、手をつないでいつものベンチに向かう。
違うのは、俺と陽菜の服装くらいだ。
誰もいない公園に、彼女のパンプスの音が響く。
「美味しかったね……下総亭のご飯って、あんななんだね」
「なぁ、陽菜……」
しっとりとした体温が伝わり、視線を頰に感じる。
「そのワンピース……あの口紅に合わせたんじゃないか?」
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
走り去るタクシーのテールランプ。
「君は、もう立派な画家だ」。その一言を抱えて、俺は日常に戻る。
隣には、ボルドーのワンピースが似合う、俺の大切なパートナー。
陽菜。君のその色が、瑞恵さんを、そして俺の未来を照らしてくれたんだ。
次回、第138話(最終回)『アリザリンの約束、燃える瞳の未来』
俺も陽菜が好きだ。これからも、そばにいてくれないか。




