第136話:絶品シチューと、大多喜香取堂の自立
ぷぅん、と新しい革の匂いが漂う。
包み紙から現れたのは、大きめの手帳のような革製品だった。
「……この店は、元々は馬具を扱っていた古い店だ。
ここの革は、使い込むほどに持ち主の手に馴染み、決して裏切らん。
ワシは先代と議員の時からの馴染みでな」
だから、包み紙に馬があしらってあるのか、と独り納得する。
「灯くんの人柄を伝えて、君のそばで使えるものを頼む、と作ってもらったんだ……
世界でたった一つの、な」
「あ、ホント!T.Hondaって名前が入ってる」
目を丸くして革製品の刻印を指さす陽菜。
「今は先代の技に惚れ込んだ若いヤツらに店を任せているが、先代も腕が鈍るからって、今も工房で若いのといっしょに、鞄やら定期入れやらを作っとるんだ」
手に取ると、ゴツイのに、軽すぎず重すぎずという絶妙な重さだ。
「僕の……そばで使えるもの」
塩浜さんはニコニコしながら俺を眺めている。
いったいこれはなんだろう。
マグネットのボタンを外して展開する。
「ペンケース……だ」
「……広げて、後ろに折り返してごらん」
言われるまま、本体を後ろへ折る。
すると、厚手の革が磁石のように吸い付いて固定され、ペンケースはテーブルに自立した。
「……っ、すごい」
ペンを一本ずつ差し込めるホルダーと、消しゴムや練り消しを置いておける小さなトレイ。
これなら……教室の机でも、放課後のデッサンでも使える。
「あの二人の瑞恵を描いた君だ。
このペンケースに釣り合う、立派な画家だとワシは思う」
贈り主はワイングラスを傾け、一口あおりゆっくりと飲み込む。
俺は、塩浜さんからの思いを包むようにペンケースをたたみ、トートバッグにしまった。
「あら……もういいですよ、運んでください」
大野さんが呼びかけると、デミグラスソースの香りをまとうように、ウェイターさんたちがお皿を運んできた。
どうやら、塩浜さんからの『贈呈式』が終わるタイミングをはかっていたらしい。
「ここの店を始めた『タツ』……佐原の野郎はな、頑固なヤツだったが、あいつの作るこのシチューは、どんな時も絶品だった。
あいつも瑞恵のことが大好きでな、あいつと食べにくるとあからさまに肉を厚く切りおってな……」
さらに思い出を話そうとする塩浜さんの肩に手を当て、視線を促す大野さん。
俺の隣にいる、食欲丸出しのアスリートが目の前のお皿を凝視している。
「……の、能書きは後でいいな。さ、食べよう」
一口すくって、素材の良さを凝縮したような濃く、芳醇な香りごと口に運ぶ。
口の中で肉が融けるように崩れて、閉じ込められた旨みが広がる。
ぱくん、とスプーンを咥えた陽菜は、大きく目を見開いて俺のジャケットを力いっぱい引っ張った。
「……!!! ともくん、これ……!」
言葉にならない陽菜の反応を見た塩浜さんの豪快な笑い声が、下総亭の個室にいつまでも響いていた。
【担当:神栖陽菜(陸上部/灯の幼なじみ)】
下総亭のビーフシチュー、本当にお肉がとろけた!
幸せすぎて、お腹も心もいっぱいいっぱい。
タクシーでいつもの公園に降ろしてもらったとき、灯くんが急に真面目な顔をした。
あ、茶封筒……。
次回、第137話『プロのケジメ、タクシー窓越しの清算』
「ははは。怒るな陽菜ちゃん」。……塩浜さん、ずるいよ、そんなの。




