第133話:下総亭の扉、重厚な時間の幕開け
「あ、こちらで停めてください」
大野さんの声でタクシーが停車したのは、明るい駅前から少し外れた一角だった。
車外に一歩踏み出すと、そこにはぼんやりとした街灯に照らされた、赤レンガ造りの重厚な建物が、静かな威厳を放って佇んでいた。
「下総亭……ここですか?」
陽菜と顔を見合わせる。
昔からのお店で、名前は知っていた。
だけど、雰囲気からして、俺たちだけではとても入れそうにない。
だから、名前は知っていても、お店の前を通り過ぎるくらいで、入ったことはなかった。
ガシャ、ギィっ。
「こんばんはー、予約した塩浜ですー」
ワンテンポ早くタクシーを降りた大野さんが、慣れた手つきで重い木の扉を開け、店員さんに何か告げている。
「さあ、入ろう。灯くん、陽菜ちゃん」
慣れた様子でドアに向かう塩浜さんに続き、俺と陽菜は緊張しながら足を踏み入れた。
「へぇ……こんな感じなんだね……」
有名なお店なので、雑誌のグルメリポートとかで写真が載ることがあるので、内装は見たことがある。
だが、写真と実物では全く別物みたいに思える。
使い込まれたレンガと、磨き抜かれたダークウッドの調度品。
暖色の照明が、それらの『重ねられた時間』が醸し出す質感を美しく浮かび上がらせている。
「素敵ね……」
陽菜がうっとりとした声で内装を見回している。
無理なことはわかっているが、一部分でもスケッチさせてもらいたいくらいだ。
「ほら、二人とも。こっちよ」
大野さんが手招きする。
俺たちがキョロキョロしながら歩いていたので、少し離れてしまった。
お店の奥に進む依頼主とそのパートナーを追って早足になる。
追いついた時、陽菜が俺の袖を引っ張ると、びっくりした口調で囁く。
「ねぇ……厨房の中にいたコックさんたち、おじいちゃん見たら、みんな手を止めてお辞儀してたわよ」
「……俺、とんでもない人の依頼を受けてたんだな」
「え!?……今さら?」
陽菜と小声で囁き合いながら、俺たちはお辞儀されていた老人たちに続く。
振り返るとホールが見えない。
きっと塩浜さんたちのようなVIP用の部屋にでも通されるのだろう。
『ここは時々先生たちも打ち合わせで使うくらい、人が来ないのです』
『そして、声が少々大きくても、図書室の皆さんがいるところまで会話は聞こえないのです』
陽菜の大会前、鈴江ちゃんに尋問された図書室の書庫スペースに似ている。
あの時に質問されたことは、その時はわけのわからないことだと思っていたけど、友達になった今ならわかる。
「こちらでございます」
ウェイターさんが扉を開ける。
そこには美しい木目を持つ大きなマホガニーのテーブルが置かれていた。
席は、五席。
少しだけ離れた場所にある席には、キラキラと照明を反射しているガラスの花瓶に生けられた、一輪の赤いバラが置かれていた。
俺は、深々と一礼した。
バラの席はきっと瑞恵さんだ。
この間みたいに姿は見えないけど、そこにいるような気がして、自然と一礼するのだった。
陽菜が、不思議そうに俺の腕を引っ張るので、振り向いた俺は口パクで「み・ず・え・さ・ん」と告げると、彼女は居ずまいを正して会釈した。
「いつものコースで。それから、この子たちの分、これも追加してもらえるかしら」
みんなが着席すると、台本があるかのように、大野さんがウェイターに淀みなく告げる。
「本当はもうちっと良い店でも良いくらいなんだが……」
おしぼりで手を拭いながら塩浜さんが言う。
「それだと、お前さんたちが味もわからんうちに終わるかも、と喜美江と相談してな。ここにした」
塩浜さんが、少しだけ目尻を下げて笑った。
「あ、あの、今更ですけど……私も同席して本当によかったんでしょうか……?」
陽菜が恐縮したように聞くと、塩浜さんは豪快に笑って頷いた。
「良いにきまっとる。モデルで協力してくれたんだろ? 会ってお礼の一つもせねばな」
お酒とソフトドリンクが並ぶ。
「それに、灯くん一人じゃ、緊張して味もわからんだろうしなぁ」
コトリコトリと前菜のコールスローが並び、誰からともなくグラスを捧げ持つ。
「……いつもは瑞恵の命日にこうして食事をするが……
今日はアイツの素晴らしい肖像画ができた、お礼というわけで……
ありがとう、灯くん。……乾杯」
【担当:神栖陽菜(陸上部/灯の幼なじみ)】
コールスローも、ロールキャベツも、信じられないくらい美味しい!
でも、塩浜さんが取り出した『ツダシゲ商会』のトートバッグ。
その中から出てきたものは、食べ物よりもずっと、歴史の匂いがした。
次回、第134話『贈りもの、過去から託された「家」』
ローズウッドの木箱。灯くん、これ……鳥さんが燃えているみたい。




