第132話:笑いの連鎖、家族の温度
「おお、来てくれたか……
ほれ、入りなさい」
「……こんばんは」
塩浜さんに手招きされて乗り込む陽菜の声は、蚊の鳴くような細さだった。
無理もない。
この狭い空間で『茨城のドン』と言われた重鎮と肩を並べて座るのだ。
「失礼……します……
はじめまして、神栖陽菜です……」
いつもならキビキビとした動作で席につくはずだ。
しかし塩浜さんに気圧されているのか、会釈をしながら、おずおずと乗り込み、ちょこんと隣に座る。
俺が乗り込み、ドアが閉まると、タクシーは滑り出した。
市役所の巨大なガラス窓に、対向車のライトや街灯が反射してきらめく。
タクシーの窓越しに流れていく街の灯りは、歩道から見るそれとは全く別の表情を持っていた。
曲がるとき、ウインカーのカッチカッチという音が響く以外は静かな車内。
これから楽しくご飯、というよりは、大事な進路相談にでも向かうような重い空気だ。
気がつくと、恋人が俺のジャケットを、こっそり指先でつまんでいる。
「陽菜ちゃん、あんまり緊張しないでね。
……ほら、しげさんも……そんな調子じゃ彼女が怖がってしまいますよ」
大野さんが苦笑いしながら後部座席を覗く。
ハッとした二人はお互い見つめあって、会釈をする。
作品を納めた後、陽菜には制作にあたって資料で読んだ塩浜さんの功績や武勇伝を話していた。
今ではとても考えられないような、伝説的なエピソードの数々に「ウソ!?ヤバ!」と驚きっぱなしであった。
そんなエピソードを持つ張本人が隣に座っているのである。
緊張するなということじたい無理だろう。
俺だって絵画教室でいっしょに描いているからまだマシだが、黙って座る塩浜さんは、やはり独特の「圧」がある。
「ごめんなさいね、しげさんは陽菜ちゃんみたいな女の子と会うことってなかなかないから、緊張しているの」
「え!?」
「おい、喜美江……」
慌てる元県議会議員をスルーしながら、元秘書は陽菜に言う。
「一応、陽菜ちゃんのことは、しげさんに伝えています。
素敵な子だなって、会うのを楽しみにしていたのよ。
ね、しげさん?」
「おいおい……うむ……
まあ、そうなんだ……」
塩浜さんが顔を赤らめる。
こうなると「茨城のドン」も形無しである。
「あ……ありがとうございます」
おそるおそる会釈する陽菜。
「三段跳びの……選手なんだったな……
確か、この間の大会で自己ベストを更新したんだろ?」
「あ……はい!いつもは11メートル代の記録でしたけど、大会で初めて12メートルを超えたんです」
「そうかそうか、頑張ったなあ」
嬉しそうにうなずく次期陸上部エース。
タクシーが信号待ちで止まる。
再びおとずれた静かな空気。
それを破ったのは、「陽菜ちゃん」と呼びかけた塩浜さんだった。
背筋をピンと伸ばして塩浜さんに向き直る陽菜。
流れる街灯に広がる髪が照らされて、光がこぼれ落ちる。
「陽菜ちゃん。……そういう服を、普段から着ているのか?」
「……ふぇっ?!」
恋人の肩が、ビクッと跳ね上がった。
背筋をピンと伸ばしたまま固まっている。
膝の上に乗せた手が、ワンピースのボルドーの布地を指先が白くなるほど握りしめられ、俺のジャケットもまた、ギュッと強く握られていた。
「……っ!!! あ、えっと、それは……その……」
しどろもどろになる陽菜。
ああ、やはり。
さすが、塩浜さんの眼力である。
文化祭で陽菜のアクアブルーのメイド服を見た典子先輩が、嬉しそうに言ってたのを思い出す。
『へー、これが、新しく買ったって教えてくれたお洋服ね……それにしてもピッタリねぇ……。
やっぱりお家で着こなしてるだけあって……!』
『あっ! せ、先輩! ストーップ! 今、なんて言おうとしました!?
な、なんでもないです!わっつ、わっつ、わっつ、なんでもないです!』
あの時も、陽菜は明らかに動揺していた。
いつもはジャージで走り回っているが、心の奥底には、俺がまだ見ることのできない『もう一人の陽菜』というべき彼女が隠れているのだろう。
『ずっとそばにいるのに……
あんな典子ちゃん、今まで見たことがなかった』
典子先輩がモデルをしてくれたとき、俺と一対一で話した田辺先輩が言ったこと。
長い付き合いでも、恋人の全てがわかるわけじゃない。
でも、いつか、見せてくれる時が来たら嬉しい。
それは、結びつきがもっと強くなったことの証拠だからだ。
「しげさん、そこまでにしてあげて。
女の子にはね、誰にも教えたくない『秘密のクローゼット』があるものですよ」
柔らかな微笑みで、助手席から振り返った大野さんは、塩浜さんをたしなめる。
だが、目は笑ってない。
「……ね、陽菜ちゃん?」
コクコク、というよりブンブン、という方がしっくりくるような勢いで、フリフリ服好き疑惑がかかったアスリートは首を縦に振る。
塩浜さんも悪気なく女子高校生の秘密に踏み込んだことで『やっちゃった』という雰囲気で焦っている。
「いやぁ、すまんすまん……あまりに似合っているものだからな」
地域の名士も、一人のおじいちゃんであることに変わりない。
「すまんすまん、てっきり、普段から着慣れているものかと思ってな……」
さっきまでの「圧」はどこかに行ってしまった。
落ち込み気味の元県議会議員を見て、陽菜もどうしていいか困惑気味だ。
なんだか可笑しくなり、俺が白々しい調子で混ぜっかえす。
「……確かに、普段から着てないと、こういう色選びのセンスは出ないよねー」
「……うっさい」
と、陽菜がつぶやくや否や、俺の脇腹に肘がドズン、と打ち込まれた。
「……つっ!!!」
その様子を見た、塩浜さんが豪快に笑い出す。つられて大野さんも笑い出した。
笑いは連鎖して、陽菜も俺も、そして運転手さんまで笑い出す。
タクシー内の張り詰めた空気は、その笑い声とともに、どこか家族的な温かさへと変わっていった。
【担当:大野喜美江(元県議会議員秘書)】
タクシーが停まったのは、歴史ある赤レンガの建物『下総亭』。
ここはしげさんと瑞恵さんの、思い出が詰まった場所。
灯くん、陽菜ちゃん。今日は最高の料理を楽しんでね。
瑞恵さんも、きっとそこの「特等席」で見てくれているわ。
次回、第133話『下総亭の扉、重厚な時間の幕開け』
しげさん。そんな風に前菜だけで満足しないで。今日は、これからなのよ。




