表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第五章(最終章):未来キャンバスと、素顔の肖像画(ポートレート)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

128/143

第128話:瑞恵さん、お帰りなさい

うなずいた俺は、塩浜さんと大野さんに一礼して、布のかけられたイーゼルに向かう。


心臓が飛び出すのでは、と思うくらいに激しく脈打ち、手もぶるぶると震える。


自分の足じゃないみたいに、ふわふわと歩く。


わずかな距離なのに、イーゼルがものすごく遠く感じる。


大丈夫だ。


あの、陽菜のリアクションが全てじゃないか。


『ともくん……これ、本当に絵なの?』


ニスが乾き、アトリエに持ち込む前、自分の部屋で彼女にこれを見せた時の光景が、鮮やかに蘇る。

スマホの画面越しではなく、本物の『瑞恵さん』を初めて目にした陽菜は、目を見開き、両手を口に当てたまま硬直していた。


『……生きているみたい』


長い沈黙のあとに漏れ出た、絞り出すような、掠れた声。


『信じられない……これ、本当に絵なの?』


驚きがおさまらない恋人は、瑞恵さんから目を離さずにつぶやいた。


『ねぇ ……信じてもらえないかもしれないけど……』


ごくり、と唾を飲み込む音。


『瑞恵さんが、今、私に話しかけてきた。重三郎さんによろしくって……本当よ』


あの時の、陽菜の震える肩。

その記憶が、俺に勇気を与えてくれる。


大丈夫だ。


自分に言い聞かせ、イーゼルのそばにつく。


「……塩浜さん、今の僕にできる、ありったけを込めました」


俺は一礼し、布の端を握った。


「そして僕も……瑞恵さんに会ってみたい、そういう気持ちで描きました」


「……会えたかね?」


すっかり柔和な顔で問いかける依頼主に、俺は迷わず答えた。


「はい。そう思います」


それを聞いた塩浜さんは、大きくうなずいた。

布を持つ手に力がこもると、銀さんの刷毛を握った時のような、あの心地よい重みが指先に蘇る。


「……瑞恵さん。塩浜さん……

重三郎さんが、会いに来てくれましたよ」


布に(ささや)き、大きく深呼吸したあと、ゆっくりと布を引いた。


ふぁさっ……。


アトリエの(かす)かな光を浴びて、二人の瑞恵さんが姿を現した。


(まかな)いを差し出す姿。


初代クラウンの助手席の姿。


照明のせいだろうか。

視線の先に塩浜さんをとらえた二人の瑞恵さん笑顔は、俺の自室にいたときより輝いている。


息を呑む音が、俺にはハッキリ聞こえる。

二人の笑顔が時を超えて、夫である塩浜さんに届いたことを確信した。


カツ……。

カツ……。

カツ……。


塩浜さんは目を見開き、一歩、また一歩と、吸い寄せられるように絵に近づいていく。


大野さんは、口を手で覆ったまま、立ち尽くしていた。

二人の後ろで先生が大きくうなずいている。


カチャン。


ステッキが手から離れ、塩浜さんが膝に手をついた。


「み……瑞恵……みず、え……」


心を絞ったような、かすれきった声。

塩浜さんの肩が、不自然に震え出した。


「みぃちゃん……みぃちゃんっ!」


塩浜さんの声がしだいに大きくなり、アトリエに響く。


「みぃちゃん……うううっ」


彼は肖像画を凝視したまま、ゆっくりとうなだれた。

震える依頼主の足元に、ぽたりぽたりと涙が落ちる。


みぃちゃん、と彼は呼びかけた。


きっと、塩浜さんのみ許された、瑞恵さんの呼び名だ。


俺は、確信した。


塩浜さんも、俺たちと同じように、瑞恵さんに会えたのだ、と。


「しげさん……」


大野さんがゆっくりと寄り添い、パートナーの肩を抱く。


その姿は、もはや伝説の経営者ではなく、元県議会議員でもない。

ただ一人、最愛の人を失ったまま時を止めていた、塩浜重三郎という一人の男の姿だった。


「……!」


ゆっくりと顔を上げた依頼主の視線が二枚それぞれの唇に注がれる。


「……灯くん。これ、は……」


「しげさん……灯くんに頼んで、あの口紅も引いてもらいました」


大野さんの言葉に、塩浜さんは触れる寸前の近さまで、肖像画に顔を寄せた。


現実には引かれることのなかった口紅。

アリザリン・クリムゾンが映える、真紅の唇を見つめる。


「みぃちゃん、ごめんよ……

もっと早く、もっと早く君に買ってあげなくてはいけなかったのに……!」


流れる涙を拭おうともせず、塩浜さんはその唇を、震える指先でそっとなぞった。


嗚咽がアトリエに響く。


みんな、頰に涙がつたっている。

気がつくと、俺の視界も滲んでいた。


慌てて袖で目を拭う。


「灯くん……よくやってくれた……」


塩浜さんと大野さんが、俺に向かって、静かに、そして深く頭を下げた。

俺もそれに応えるように、腰が痛くなるほど深く頭を下げ返した。


いろんな感情が混ざりあい、涙が溢れる。


こらえきれなくて、涙を拭こうと顔を上げた瞬間。


俺には確かに見えた。


ドライブデートの作品から抜け出たような姿の瑞恵さんが、塩浜さんの隣でニコニコと俺を見つめていたのを。


「……え!?」


慌てて顔をあげたが、もう、そこには塩浜さんの戦友はおらず、肖像画が微笑んでいるだけだった。

【担当:神栖陽菜(陸上部/灯の幼なじみ)】

肖像画が完成して、灯くんはすっかり魂が抜けちゃったみたい。

無理もないよね、あんなに頑張ったんだもん。

でも、今日は塩浜さんたちとの「お疲れ様会」。

ねぇ灯くん。私、今日のためにちょっと頑張っておしゃれしてみたんだけど……。


次回、第129話『電車の揺れと、ボルドーの秘密』


常磐線のガタンゴトンって音、なんだか眠くなっちゃうね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ