第126話:完成、そして響いた「ありがとう」
エネルギー溢れるパートナーの危うさを誰よりも知り、誰よりもハラハラしてしまうのは、いつも隣にいるからこそだ。
俺だって「振り回されるこっちのことも考えてよ」と言いたくなるが、目指すところに燃え輝いて、全力疾走しているのを見ると、言葉をグッと飲み込んでしまう。
そして、息切れしながら遠ざかるパートナーの背中を夢中で追いかけるしかないのだ。
瑞恵さんもきっと同じだ。
「本当、大変でしたね……」
そうつぶやきながら、俺は筆走らせ続ける。
そして、何日目かの深夜。
俺は着替えもせずにいた制服の袖を捲り上げ、ほぼ完成した二枚の絵を眺めていた。
「もうすぐですね……瑞恵さん」
定食屋の裸電球に照らされ、土埃に吹かれた、生命力に満ちた肌。
ツダシゲの二人に寄り添いながら、いざというときは盾にもなる覚悟を決めている、意志の強さを宿した瞳。
そして、ツダシゲ商会の窓口として躍動した、艶やかな髪の毛。
俺のありったけを注ぎこんで、すべて描き込んだ。
だが、その唇だけは、あえて肌色のまま残してある。
手元には陽菜が選んでくれた『アリザリン・クリムゾン』のチューブ。
「……よし、約束の口紅、引きますね」
写真の中の瑞恵さんにうなずき、俺はパレットの上に二つの広がりを作った。
そしてイエローオーカーとバーントアンバーを二つの広がりに微量を混ぜ、『純粋な赤』から『輝き続ける、戦友の赤』を作る。
「やはり、銀さん……力、借ります」
ここは絵筆を使うのが当たり前だ。
しかし、俺はこの口紅を引くのは、銀さんの刷毛を使うのが当たり前だと思った。
きっと、この刷毛を使わないと、瑞恵さんを呼べない。そう思った。
俺は刷毛のエッジを使い、パレットの真紅をすくい取る。
最初は賄いの一枚に引く、イエローオーカーが混ざる紅だ。
手が、震える。
まるで俺の震えを叱咤するように、刷毛がずっしりと重くなった。
しかし、 その重みが、かえって緊張感を保ってくれて心地いい。
大きく深呼吸をして気合を入れる。
賄いの笑顔を彩る唇の輪郭、そのわずかなズレも許されない場所に、俺は瑞恵さんの魂の紅を乗せた刷毛を慎重にあて、一息のもとに引く。
つつつつ……
集中力を切らさずに、今度はバーントアンバーの混じった紅を刷毛のエッジに乗せて、慎重に当てた後、一気に引く。
つ……つーっ。
「引けた……」
そして、細かい筆を入れ替えながら、唇の形を整え、柔らかな起伏を作っていく。
それは「色を塗る」作業ではなく、まるで彼女に体温が宿っていく感覚だった。
一気に密度を増した表情にハイライトを入れていく。
パレットのチタニウムホワイトを細筆ですくい、瞳の真ん中にチョンと置いた。
瑞恵さんに視線が生まれた。
二人の瑞恵さんが、キャンバスの向こう側から俺を見ている。
次に、チタニウムホワイトとイエローオーカーをほんの少し混ぜた、ウォームホワイトともいえる色を作り、鼻筋や頬に引いていく。
唇に続き、彼女の肌にも体温が宿っていく。
最後は、チタニウムホワイトにアリザリン・クリムゾンをほんの少し混ぜ、明るいピンクがかったホワイトを作る。
細筆ですくい、塗り重ねた紅が起伏を作っている唇にチョンと置いた。
「……できた」
大きく息を吐きだした瞬間、絵の空気が一変した。
完成した二人の瑞恵さんは、まるで慈しむような笑顔で俺を見つめ返している。
「……ありがとう、お兄さん」
「……!!!」
優しい女性の声がした。
俺は息が止まりそうになり、周囲を見渡した。
完成品の二人、デッサンの二人、そして写真の一人。
それぞれの瑞恵さんを凝視したが、それ以上は何も聞こえない。
空耳だろうか。
それとも、この部屋のどこかで俺を見守ってくれていたのだろうか。
耳の奥にはまだ、あたたかい吐息のような感覚が残っている。
深夜の静寂が、さっきまでとは違う、穏やかで優しいものに変わっていた。
そうか。
瑞恵さんは、来てくれたんだ。
「こちらこそ、ありがとうございます……お疲れさまでした」
一礼した俺は、俺は筆を置き、 スマホで写真を撮って陽菜に完成報告する。
送信ボタンを押すと、全身の力が抜け、心地よい虚脱感が襲う。
絵の具が乾燥したら、後はニスを引いて本当に完成だ。
やり切った。
今の俺にできること、そのすべてをキャンバスに刻み込むことができた。
ヨロヨロとベッドに倒れこむ俺を、五人の瑞恵さんは、ただ静かに、ねぎらう様に微笑みをたたえて見ていた。
【担当:大野喜美江(元県議会議員秘書)】
ついに、この日が来たわね。 灯くん、あなたの目は、もう以前とは違う。
日立先生のアトリエに置かれた、白い布がかかった二枚のイーゼル。
しげさん、準備はいいかしら。瑞恵さんが、そこで待っているわよ。
次回、第127話『最後の審判、アトリエの緊張感』
緊急の相談なんて、今日に限って商工会の人たちも……。しげさん、機嫌を直して!




