第124話:二台のイーゼル、瑞恵を掘り起こす日々
数十分後。
スマホで描く準備のできた部屋の写真を撮って、陽菜に返信する。
今回は、二枚の作品を並行しながら描くので二台のイーゼルを立て、キャンバスを並べた。
そして、塩浜さんが選んだデッサン二枚をイーゼルの近くの壁に留める。
アクリル絵の具は乾きが早い。
集中力が続くうちに、二枚同時に、一気に瑞恵さんを呼び戻す必要がある。
だから、俺が自室で使う一台と、日立先生のアトリエから借りた一台の二台体制なのである。
瑞恵さんの資料写真を写真立てから外し、俺のイーゼルにクリップ留めした。
「瑞恵さん、これからあなたを描きます。
来てくれると、嬉しいです」
深々と一礼して、深呼吸する。
そして、薄い色の鉛筆を手に取り、キャンバスに置いた。
シャッ、シャッ、シャッ。
瑞恵さんを呼び戻す作業が始まった。
デッサンを見ながら、少しのズレも出さないよう、緊張して線を走らせる。
今の俺のありったけをこめて、走り切ってやるんだ。
それからの数日間、俺の意識は「今」という時間を半分切り離していた。
学校から帰れば制服も脱がずにイーゼルの前に座り、深夜まで手を動かす日々が続く。
鉛筆での下絵を終えたら、次は地塗りだ。
賄いのイエローオーカー、ドライブデートのバーントアンバー。
二枚の瑞恵さんのテーマカラーを真っ白なキャンバスに薄く引いていくのだ。
いつもは太い筆で引くけど、今回は横丁のバイト最終日に銀さんから譲り受けた「穴熊毛のぼかし刷毛」を使うことにした。
『……くれぐれも、神棚に飾ったりするなよ? 道具は使ってナンボだ』
淡々と別れを告げて、歩き去った銀さんの背中を思い出す。
教え通り、道具は使ってナンボだ。
譲られた以上、俺の刷毛として作品作りを頑張ってもらおう。
だか、手に取ったとき、思わず刷毛に言ってしまった。
「銀さん……力を貸してください」
刷毛を渡された日、ニヤリと笑った銀さんの言葉を思い出す。
『あとはお前が自分自身で躓づいたり転んだりして学んでいくんだ』
そうだ。
そうだった。
もう、俺は俺で頑張らなくてはいけない。
もし、倒れそうになったら、陽菜に寄りかかり、再び立ち上がれば良い。
思い直して刷毛につぶやいた。
「力をお借りします、が正しいですよね、銀さん」
薄めた絵の具をパレットからすくい、キャンバスに当てていく。
スーッ……スーッ……
もともと使い込まれているだけあって、イエローオーカーとバーントアンバーがびっくりするほど伸びていく。
これはすごい。
「銀さん……ありがとうございます」
使ってナンボ、どころではない。
この刷毛については、使い倒してナンボ、である。
地塗りが終われば、いよいよ瑞恵さんを描いていく。
……いや「浮かび上がらせる」と言った方がよいだろう。
大きな筆を使って「影の塊」や「光の塊」をボトボトと置いていく。
下書きの『線』をなぞるんじゃなくて、瑞恵さんの『存在そのもの』を、色で積み上げるのだ。
筆がキャンバスを叩く音が、自室に響く。
横にあるデッサンの瑞恵さんと目が合うたび、筆が加速していく。
「だんだん、ハッキリしてきましたね……瑞恵さん」
独りつぶやきながら、筆を走らせる。
真っ白だったキャンバスに色が宿り、肉が付き、感情が灯っていく。
まるで瑞恵さんがキャンバスの下に隠れていて、俺が筆で掘り起こしているような感覚。
一刻も早く瑞恵さんに会いたくて、昼間の学校生活が鬱陶しいくらいだ。
ただ、学校そっちのけで作品作りに熱中することを、塩浜さんは望んでいないだろうから、きちんと学校には行った。
そのかわり授業の合間など、時間を見つけては、ツダシゲ商会に関する資料を読んでいく。
状況を知っている陽菜、資料を頼む俺の様子に何かを察した鈴江ちゃんは、俺に視線を送るだけで、話しかけてはこなかった。
しだいに浮かび上がってきた瑞恵さんに、細やかに色を重ねて厚く盛り、質感を作っていく。
定食屋の湯気、瑞恵さんのエプロンの皺、そして笑顔の陰影。
ドライブの際に見せた、助手席での誇らしげな笑顔やクラウンの重厚な車内。
そして、未舗装の道路が巻き上げる土埃。
不思議と迷いはなかった。
筆を動かすたび、俺の脳裏には塩浜さんの語りと、資料に書かれたツダシゲの武勇伝、瑞恵さんを悼む大野さんの沈痛な面持ち、そして陽菜の弾け輝く笑顔が、頭の中で現れては消えていった。
俺が描いているのは、単なる過去の再現じゃない。
塩浜重三郎という、奥さんに恋する男が、心の奥底に閉じ込めてきた『心の欠片』を、一つずつ色で拾い集める作業だ。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
銀さんから譲り受けた、穴熊毛の刷毛。 道具は使ってナンボだ。
銀さんの力を借りて、俺は瑞恵さんの「影」を掘り起こしていく。
彼女が独りで背負い続けてきた、あの時代のハラハラを、俺もまた追体験していた。
次回、第125話『パートナーの危うさ、隣にいる理由』
陽菜がケガをした時に感じる、あの胃を掴まれるような感覚。……瑞恵さんも、ずっと。




