第121話:恋人とドールと、隠された情熱
長い沈黙のあと、俺に歩み寄った依頼主は「そうか、頼むぞ」と俺の強張った肩を、ゆっくりポンポンとたたいてアトリエから出ていく。
やった。
ゴーサインをもらった。
安堵感と達成感が混ざり合って、跳び上がりたい気分だ。
……カツン。
塩浜さんが不意に立ち止まって、ポツンと言った。
「頼む……本当は……五つとも完成品を見たいくらいなんだ」
その切実な声で、浮かれた気持ちが瞬時に引き締まる。
彼が俺に託した想いは計り知れない。
宣言通り、ありったけをこめないと、塩浜さんに瑞恵さんを連れて来れない気がした。
「はい……頑張ります」
ステッキの音が消えるまで、俺は頭を下げていた。
「さて……と」
あの日の塩浜さんがアトリエを出ていく姿を思い返して気合を入れ直す。
改めて、圧倒的な品ぞろえの陳列棚を見渡す。
あんな塩浜さんを見た以上、いい加減な画材選択はやめた方が良いに決まっている。
せっかく資金援助もしてもらったし、ムダ使いしない範囲で使わせてもらおう。
再びリストを見ながら、普段なら高くてスルーするハイグレードな画材をカゴに入れていく。
「これと……これでほぼ揃ったかな」
リストもほぼ全ての項目にチェックマークがついた。
キャンバスはかさばるから最後にすれば良い。
「これが一番悩ましいな……」
リュックから折りたたまれた紙を取り出して広げる。
宝石のようなケースから伸びる赤い口紅。
大野さんが渡してくれたシャネルの最高級品『トランテアン ル ルージュ』の資料写真であった。
俺が使ってきた絵の具で当てはまるものがなかった、独特の赤なのである。
持っている色見本にも、ありそうで無い色なので、お店で見て選ぼうと考えた。
行き当たりばったり、と言われても仕方ない。
ただ、お店にある絵の具の棚自体が、巨大な色見本と言って良いくらい細かく多彩なのである。
お金がなく、美術部でもない俺は、いくつも色見本が見れるわけじゃない。
手持ちの色見本にない色を見た時、ここに来て色の名前などを調べ、絵の具を買う。
買えないときは色の名前をメモして、スマホで調べた画像をもとに、絵の具を混ぜて色を作ったりしているのだ。
「ありそうでない……難しいなー」
写真と棚を見比べて、悩んでしまう。
微妙な感じの色なので、決めきれない。
『この口紅の色を、肖像画の瑞恵さんに引いてあげてほしいの』
大野さんの依頼は作品のキーポイント、かつ塩浜さんへのサプライズだ。
色が決めきれないといって、外すわけにいかない。
写真に近い色で、なおかつ瑞恵さんが映える色。
これは、実際に口紅を使う女性の意見を聞くのが一番だ。
陽菜に聞いてみよう。
画材を選んでいる間、うろうろしている彼女をチラチラと見かけてはいる。
一人でフードコートとかには行っていないはずだ。
「おーい、陽菜ぁ……」
ずっしりと重くなったカゴを持って、恋人を探す。
程なくして、ごそごそとしている彼女を見つけた。
手元のポーズ人形が、華麗な跳躍姿勢を決めている。
調整された関節の曲がり具合のリアルさは、さすが「本職」というべきか。
「陽菜、遊んでいるところ、ごめん……
ちょっと手伝って欲しいんだ」
真顔で足首の角度を調整している恋人に歩み寄る。
ん?という表情で顔を上げた彼女は、俺の「手伝って欲しい」という言葉に反応した。
「うん!何をお手伝いすればいいの?」
弾ける笑顔の陽菜が近寄ってくる。
「瑞恵さんの口紅の色、いっしょに選んで欲しいんだ」
「わかった!任せて!」
鼻息荒く敬礼ポーズをとる彼女。
苦笑いした俺は、陽菜の後ろで跳躍している人形を指さした。
「その前に、あの人形を直してから……あ///」
「あ……///」
俺の上ずった声に振り返った陽菜は、顔を真っ赤にして口を両手で覆った。
【担当:神栖陽菜(陸上部/灯の幼なじみ)】
あああ、恥ずかしすぎる!
灯くんに、あんなところ見られちゃうなんて……。
でも、灯くんはそれどころじゃないみたい。 彼が今、一番悩んでいる「色」。
瑞恵さんの唇にのせる、あの紅い色。
次回、第122話『アリザリン・クリムゾンの奇跡』
わからないけど、直感で選んでみたの。これが、彼女の「魂の色」なんじゃないかって。




