第119話:未知の世界、ジョイフル2の洗礼
今回の買い物は、いつもみたいにスケッチブック数冊、絵筆数本、絵の具のチューブ数本、というわけにはいかない。
塩浜さんから正式にゴーサインを受けただけじゃない。
画材調達の軍資金まで頂いているのだ。
小遣いで買えるような道具や画材で済ませるわけにはいかないので、しぜん、買い替えとなる。
上質なキャンバスや木枠。
いつもよりワンランク、いや、ツーランク上のアクリル絵の具。
普段手の届かないようなプロ仕様の絵筆など。
俺の道具を総入れ替えしてバージョンアップするようなものだ。
イーゼルなどは別として、作品に使うものは、普段のものではいけない。
依頼主は絵画教室の仲間である。
その塩浜さんが本気で依頼してきている以上、使った画材の品質に気づかないわけがないのだ。
最低限の礼儀として、出来る限り良い画材で描くのが『筋』だろう
「さて……これからが今日の本題だ」
と意気込んではみるが、さっきまでの自転車漕ぎのおかげで、早くもヨレヨレとお店に入る俺。
そんな俺と対照的に、陽菜はポニーテールを弾ませながらウキウキとお店に入る。
「わあ……初めて来たよぉ///」
画材やクラフト素材を集めたジョイフル2は、俺にとっては通い慣れた場所だ。
だが、陽菜は初めてだったようで、目を丸くして店内を眺めている。
パッと見では用途のわからない道具。
棚を占領しているクラフト素材。
色見本のような絵の具の棚。
豊富な品揃えと、存在感に圧倒されている。
「……独特の匂いがするのね」
キョロキョロとフロアを見渡して、鼻をひくひくさせる。
油絵具の微かな酸化臭、乾いた木材の香り、そして真新しい紙が放つ清潔な匂い。
フロアに満ちている『創作の欠片』が放つ匂いが混ざり合い、フロアの空気を醸成していた。
「わあ……ヤバ。灯くん、いつもこんな場所に来てるんだねー」
文字通り、陸上選手として走り続けてきた陽菜は、美術などと無縁であった。
だから、見るもの全てが目新しい。
目をキラキラさせながら、弾むような足取りで画材コーナーの奥へと進んでいく。
彼女は棚に並ぶ色とりどりの絵の具や、奇妙な形をしたパレットナイフなど、いちいち立ち止まって、しげしげと珍しそうに眺めるのだった。
今度、陽菜に絵の描き方を教えてみようか。
イラストでも良い。
あんな笑顔でかわいらしい絵を描いてくれたら、俺まで嬉しくなりそうだ。
陽菜を追いかけた「特訓」で重くなった身体を引きずりながら、俺の顔はしだいにほころんでいく。
今度は俺も、陽菜の陸上アイテムを買うのについて行ってみようか。
思えば今までそんなことはなかったから、新しい発見があるのかもしれない。
「ねぇ、灯くん、何を買うの?」
振り向いた陽菜が尋ねる。
楽しい、嬉しい、珍しい、そんな感情が混ざり合った、宝石のような笑顔だ。
きっと、瑞恵さんや典子先輩も、塩浜さんや田辺先輩という、心を許した相手にしかこんな顔を見せないのではないか。
「ああ、そうだった。さあ、調達だ……」
リュックからペラ一枚のメモを取り出す。
今回の肖像画作成にあたって、買うべき画材のリストだ。
「珍しいんだろ?他のコーナー、見てきて良いよ。
意見を聞きたい時は呼ぶから」
「はーい」
子供じゃないので、放っておいても問題ないだろう。
好奇心丸出しでフロアをうろうろしている陽菜を放し飼い状態にして、リスト片手に画材をカゴに入れていく。
じっくり棚を覗きこむ彼女を見て、数日前、瑞恵さんのデッサンを食い入るように見ていた、塩浜さんの姿を思い出した。
あの時、デッサンを見終わった老人は、身体の奥底に沈めていた思いを絞り出すように言ったのだ。
「……瑞恵に、会いたい。頼めるか?」
【担当:神栖陽菜(陸上部/灯の幼なじみ)】
灯くんといっしょに来た、初めての画材屋さん。
見たこともない道具や、不思議な匂い。
彼がいつもこんな世界で戦っているんだって、初めて知った。
でも、灯くんの表情は、どこか怖いくらいに真剣で……。
次回、第120話『依頼主の「本気」、ゴーサインの重み』
灯くんが預かった、あの時の「言葉」。それが今、彼を動かしているんだね。




