第116話:空腹のモデル、あるいは生命力の質感
数日後。
すっかり日が落ちて、外は真っ暗になった放課後の校舎。
教室はシンと冷え込んでおり、俺が点けた蛍光灯の光だけが、等間隔に並ぶ机を白く照らしている。
「……ねぇ、ともくん。こんなポーズ、何に使うの?」
陽菜が、いぶかしげな声を上げた。
彼女は今、ロイヤルブルーのジャージ姿で、両手に俺のノートを平らに乗せている。
そして、そのノートを誰かに差し出すようなポーズをとらされている。
「塩浜さんに、料理を出してる絵にするんだよ」
返事を返しながら、大判のスケッチブックに陽菜を描いていく。
学校に画用紙のキャリングケースを持って行くのはいろいろ面倒なので、このスケッチを元に、瑞恵さんのデッサンに手を加えていくことにした。
「話したろ? 瑞恵さんは昔、定食屋の店員さんだったって。
塩浜さんがどん底の時、こっそり賄いの一品をつけてくれたらしいんだ」
俺は一番前の席に陣取り、スケッチブックに鉛筆を走らせながら答えた。
大野さんから聞いた「シャネルの口紅」の重い真実。
そして、陽菜自身が示してくれた「困ったときは半分こ」という戦友の覚悟。
それらを作品に吹き込むためには、どうしても瑞恵さんの「生命力あふれる笑顔」のベースが必要だった。
「うーん……そう言われても……」
陽菜は、ノートを持ったまま、ぎこちなく口角を上げた。
「……ストップ、陽菜。それじゃダメだ」
「えーっ?」
「そんな、ファミレスのマニュアルみたいな顔しないでよ。
塩浜さんの話じゃ、瑞恵さんが食べる時や、料理を出す時の顔は、すごく嬉しそうだったって言うんだから」
俺が指摘すると、陽菜は頬を膨らませてノートを下ろした。
「だって、部活終わりでペコペコなんだもん。
想像でおいしい顔なんて作れないよぉ」
ぐぅぅぅぅ。
「……あ///」
彼女のお腹から、漫画みたいに可愛らしい音が鳴った。
「き……聞かなかったことにして///」
陽菜は顔を真っ赤にして、プイッと視線を逸らした。
俺は思わず吹き出し、鉛筆を置いた。
「……わかった、わかった。じゃあさ、陽菜。
これ終わったら、帰り、駅前のファミレスで食べて帰ろうか?
俺のおごりでさ」
「……えっ!ホント!やったぁ!」
その瞬間だった。
陽菜の顔が、パッと花が咲いたように明るくなった。
疲労も空腹も吹き飛んだような、無防備で、圧倒的な生命力に満ちた笑顔。
『んまーっ!!』
横丁の内覧会後の報告会で、揚げパンを頬張った時の、あの顔。
生きることを全身で肯定する、太陽のような輝き。
「あ!……これだ!」
俺の視界の解像度が、一気に跳ね上がる。
蛍光灯の光を反射する彼女の瞳の潤み。
愛らしい口角の上がり方。
ジャージの肩のわずかなシワの寄り方。
まるでスポットライトが当たったかのように、陽菜の醸し出す質感が脳内に焼き付いていく。
「あ、それそれ! そのまま……
絶対にそのままで動かないで!」
俺は慌ててスケッチブックを引き寄せ、全速力で鉛筆を走らせた。
駆け出しの頃、何もない塩浜さんを救ったのは、きっとこんな風に、隣にいるだけでこちらまでお腹が空いてくるような、エネルギーに満ちた笑顔だったはずだ。
「え、ええ? この顔のまま!?」
「そう! 最高の笑顔だよ、陽菜。
……これが戦友の顔だ」
「せんゆう……?
よくわかんないけど、ともくんが奢ってくれるなら、いくらでも笑うよ!///」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに照れ笑いする陽菜。
静かな教室に、鉛筆が紙をこする音と、彼女の微かな呼吸音だけが響く。
塩浜さんの求める「人間の質感」
大野さんから託された「救済の口紅」
そして、陽菜がくれた「生命力の光」
すべてのピースが、今、俺の手の中で一つに繋がろうとしていた。
「……これも制作費でいいですよね、塩浜さん、瑞恵さん」
俺はつぶやきながら、空腹な恋人の笑顔と瞳に宿る輝きをスケッチブックに写し取っていった。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
深夜の教室。俺の奢りのファミレスに釣られて、陽菜が最高の笑顔を見せた。
生きることを全身で肯定する、太陽のような輝き。
これだ……。
これこそが、瑞恵さんが塩浜さんに見せていた「戦友の顔」だ。
さあ、すべてのピースが揃った。
次回、第117話『土埃の国道、あるいはネイビージャージの背中』
陽菜の自転車、同じシティサイクルだよね?




