第115話:涙の許し、あるいは日曜日の柊珈琲店
週末の日曜日。
ショッピングモール内の「柊珈琲店」は、休日の買い物を楽しむ客たちで程よく賑わっていた。
「最近、よく来るわねぇ」
柏木さんにニコニコ顔でいじられる。
身内にいろいろ知られるのは、ちょっと恥ずかしい。
陽菜との相談や小競り合いなんかは、佐倉さんや館山さんたちスタッフのほとんどに目撃されていた。
だけど、横丁でお世話になって以来、大事な話は落ち着いた雰囲気のこのお店、と決めていた。
今日は、その大事な話なのである。
他のお店にする選択肢はなかった。
俺は奥のテーブル席に座り、アイスコーヒーをちびちび飲みながら、入り口の方を気にしていた。
カラン、と控えめなドアベルが鳴り、見慣れた二人の姿が現れた。
私服姿の典子先輩と、田辺先輩だ。
俺は立ち上がり、小さく手を挙げた。
「あ、先輩こっちです!」
気づいた二人が俺の対面に腰を下ろす。
典子先輩はふんわりとした柔らかいニット姿で、田辺先輩は清潔感のあるジャケットを羽織っていた。
「 今日はわざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
「ううん、こっちこそ、この間はありがとうだよ。
モデルなんて初めてだったから、すごく緊張しちゃった」
典子先輩はそう言って、クスクスと上品に笑った。
その顔には、もうあの日のような「背徳の匂い」は微塵も感じられない。
「で、お知り合いの反応はどうでしたか?
誉田くんのデッサン、すごく良く描けていたと思いましたが」
田辺先輩が、前のめり気味に尋ねてきた。
その声の奥には、まだ少しだけ自信のなさが張り付いているように聞こえる。
「ええ、まあ……まずまずの反応でしたよ」
嘘は言っていない。
「まずまず」だったのだ。
二人が見合って、ホッとした顔になる。
「あのデッサンをベースにして、あとは細かいところを僕の方で微調整します。
そうしたら、いよいよキャンバスに描き起こす予定です」
俺は、平静を装ってそう答えた。
間違ったことは言っていない。
実際にそういう段取りで進めるからだ。
ただし、細かいことを言わないだけだ。
さすがに塩浜さんから「あの時の瑞恵はこんなお姫様みたいな顔じゃない」とダメ出しされたことなんて、この二人には絶対に言えない。
「そう。……良かったわね、慎一くん」
「ええ、少しでも誉田くんのお力になれたのなら、何よりですよね」
二人が顔を見合わせて微笑み合う。
やはり典子先輩には田辺先輩、田辺先輩には典子先輩が隣にいることがふさわしい。
確信を持った俺は、足元のキャリングケースをごそごそと探った。
「それで……お二人にモデルをしていただいたので、そのお礼というのもなんですが……」
俺は、クリアファイルに挟んだ一枚の画用紙を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
「え……?」
ファイルの中の筆ペン絵を見た瞬間、二人は息を呑んで絶句した。
そこには、運転席に見立てた椅子で照れくさそうに前を向く田辺先輩と、その彼を心底愛おしそうに見つめる典子先輩の姿が、墨の濃淡だけで描かれていた。
「これ……誉田くんが、描いてくれたの?」
典子先輩が、震える手でファイルを手に取る。
「はい……俺、デッサンしながら、思ってたんです」
俺は、二人の顔を交互に見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「典子先輩の隣には田辺先輩が、田辺先輩の隣には典子先輩が……
まるで最初から決まっていた『指定席』みたいに、ぴったりだって」
「……!」
田辺先輩の肩が、ビクッと揺れた。
俺は構わず続けた。
「偉そうな言葉を言う立場ではないけど……
先輩たちには、先輩たちにしかわからない、積み上げてきた二人の時間があると思うし、これからもそうであってほしいんです」
運ばれてきたアイスコーヒーとアイスティーに手をつけず、二人は俺の話に聞き入る。
「……少なくとも、俺が思う限り、田辺先輩は典子先輩と過ごす時間を、何よりも大切にしていますよ。
そんな誠実な眼差しを持って並んでいるように、描きました」
カラン。
三つのグラスのどれかの氷が、溶け崩れて音を立てる。
「そして、典子先輩の眼差しも……
田辺先輩の優しさに支えられて、本当に幸せだというものにしたつもりです」
俺の言葉を聞きながら、典子先輩の瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
横丁の四畳半で、理性を失いかけながらも『あっちに、主人が……。慎一くんを、裏切っちゃう……!』と泣きそうに葛藤していた彼女の姿が、脳裏をよぎる。
彼女は、自分が一瞬でも他の男に揺らいでしまった罪悪感を、この絵によってようやく許されたように、ボロボロと泣きながら絵を抱きしめた。
「……誉田くん」
慎一先輩が、絞り出すような声で俺を呼んだ。
彼の眼鏡の奥も、微かに潤んでいるように見えた。
「人の心を動かす才能はない」と嘆いていた彼。
だが、この絵に描かれた二人の姿は、彼が地道に誠実に典子先輩に寄り添ってきた「時間」が作り上げたことを俺なりに示した作品だった。
「生意気なお願いですが……先輩の部屋のどこかに……
飾っていただけると、俺、嬉しいです」
ピタッと寄り添う二人に、深々と頭を下げた。
「今回は本当に、ありがとうございました」
顔を上げると、田辺先輩は典子先輩の肩を優しく抱き寄せながら、俺に向かって深々と頭を下げ返してくれた。
「こちらこそ……こんなに素敵なプレゼントを……」
その表情は、もう迷いのない、大人の男の顔だった。
それから二人と横丁の思い出話をして盛り上がり、お開きとなった。
「誉田くん、ありがとう!この絵、大切にするね」
弾けるような笑顔の典子先輩。
「僕も、誉田くんの絵のファンになりました」
顔を見合わせてから、俺を見る二人。
照れ隠しに頭を下げる俺。
店を出る二人の背中は、やはり「指定席」のようにぴったりと寄り添っていた。
カウンターから手を振る柏木さんに会釈して、椅子に沈み込む。
これで、俺の撒き散らしてしまった火の粉は消せたはずだ。
俺は残ったアイスコーヒーを飲み干し、氷のカラカラという音を聞きながら、一つの重荷を下ろしたような安堵感に包まれていた。
【担当:風間典子(小見山高校購買部/慎一の彼女)】
手渡された絵の中の私たちは、なんて幸せそうなんだろう。
誉田くん。あなたが描いてくれたのは、私たちの「信頼」そのものね。
私が一瞬だけ揺らいでしまったことも、この絵が……許してくれる気がする。
慎一くん、これからもずっと……私の隣にいてね。
次回、第116話『空腹のモデル、あるいは生命力の質感』
「奢ってくれるなら、いくらでも笑うよ!」




