第112話:魂の救済、あるいは盾となる覚悟
「いやー、とんでもないことになったな……」
大野さんと別れて帰宅した俺は、自室の天井を見上げてつぶやいた。
自室の机の上には、大野さんから託された茶封筒と、持ち帰ったデッサンが散らばっている。
つい数時間前に大野さんから聞いた、瑞恵さんが倒れた時の話。
そして、その後悔をずっとしまい込んでいた塩浜さんが、肖像画に託した想い。
想像をはるかに超えた、重たすぎる話だ。
俺は椅子に深く沈み込み、塩浜さんから「違う」と言われた、典子先輩モデルのデッサンを呆然と眺めていた。
「……戦友の笑顔、か」
頭では理解できても、それをどう表現すればいいのか、全く見当がつかない。
引き受けたは良いものの、そもそも高校生の俺に、泥沼を這いずるような大人の覚悟が描けるのだろうか。
ブブブ、ブブブ。
机の上のスマホが震えた。
画面を見ると、陽菜からのメッセージだった。
『おじいちゃんのお願い、順調?』
気にかけてくれているのだろう。
俺は、素直に現状を打ち明けることにした。
『今日、塩浜さんに見せたんだ。
だけど、典子先輩をモデルにしたデッサン、ちょっと違うって言われちゃった』
『そっか……。やっぱり、難しいんだね』
画面越しの彼女の気遣いが、焦る心にじんわりと染み込んでいく。
誰かがそばにいることの安心感を改めて感じる。
ふと、ある考えが頭をよぎり、迷いいながらも指を動かした。
『ヘンなこと聞くけどさ。
……もし、俺が今、急に事故とかで入院でもしたとする。
それで作品作りが止まっちゃったら、陽菜ならどうする?』
送信した後、ちょっと後悔した。
これじゃ面倒くさいメンヘラ彼氏みたいだ。
画面にはすぐ「既読」がついたが、しばらくの間、返信は来なかった。
だろうな、と天井を見上げる。
面倒くさい質問だった。
きっと部活で疲れているのに、悪いことをした。
「聞かなかったことにして」とメッセージを書き始めたとき、長い返信が送られてきた。
『うーん……。きっと、まずは私が代わりに、塩浜のおじいちゃんに謝りに行くと思う。
それで、もしあなたが「それでも描きたい」って望むなら、病院のベッドでも絵を描けるように、画材とかイーゼルとか、ともくんのお母さんに頼んで、私が用意すると思う』
その真っ直ぐすぎる答えに、俺は息を呑んだ。
『でも、陽菜には部活があるだろ?
次期エースって言われてるのに、俺なんかに構ってていいのか?』
『決まってるよ、灯くんが優先だよ!
だって、「困ったときは半分こ」だもん。
部活とか試合とか、なんとか頑張って調整すると思う』
俺は、スマホを握りしめたまま、小さく笑い声を漏らした。
「……ああ。なんだ」
目の前のモヤモヤが、一気に晴れていくような感覚だった。
「悩む必要なんて、なかったじゃないか」
自分が倒れたら、盾となって代わりに走る覚悟。
相手の人生の重荷を、当たり前のように「半分こ」しようとする、その途方もない気概。
それはまさに、塩浜さんが瑞恵さんに見ていた『戦友の笑顔』の正体そのものではないか。
『ありがとう。……陽菜』
俺は、いてもたってもいられず、メッセージを打ち込んだ。
『で……いつくらいに、俺の絵のモデルになる時間、取れそう?』
『……ええとね……ちょっと待って!』
画面の向こうで、彼女がスケジュールを確認している姿が目に浮かぶようだ。
俺は、塩浜さんにダメ出しされた典子先輩のデッサンを静かにずらし、真っ白な新しい画用紙を机のど真ん中に引き寄せた。
俺の隣には、最強の戦友『かえるくん』がいるじゃないか。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
瑞恵さんの壮絶な覚悟と、塩浜さんの底知れない後悔。
俺が描くべきなのは、それらを包み込み、救済するための「質感の嘘」だ。
大野さん、この色……必ず瑞恵さんに引いてみせます。
でも、その前に……俺にはやるべき「ケジメ」がある。
次回、第113話『深夜の筆、あるいは慎一へのメッセージ』
「僕には……誉田くんのような、人の心を強く揺さぶる……そんな才能はありません」




