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【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第五章(最終章):未来キャンバスと、素顔の肖像画(ポートレート)

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第111話:届かなかった口紅、あるいは霞百貨店の落日

「忘れられないわ……

あれはしげさんが県議会議員になって二期目だった。

当選してすぐ、霞百貨店が閉店するって知ったの」


大野さんがコーヒーを一口含む。


「予定を何とかやり繰りしてね……

閉店の何日か前だったけど、シゲさんは何とか約束通り、一番高い口紅を買って帰ったの」


俺が濃密な日々を過ごした昭和ノスタルジー横丁。


(かすみ)百貨店の開店百年を記念したイベント事業で、塩浜さんは発起人の一人だった。

イベントの総監督に日立先生を推奨したのも塩浜さんだ。

こうしたエピソードを聞けば聞くほど、発起人として事業を強力に推進した理由がわかる。


「しげさんから約束の口紅をもらって、瑞恵さん、とても喜んだそうよ。

百貨店の包み紙を愛おしそうに撫でていたんですって」


何十年越しに守られた約束。


瑞恵さんだけでなく、塩浜さんご本人も嬉しかったに違いない。

ツダシゲ商会がうまくいかなかったら、口紅どころではなかった。


だが、塩浜さんはツダシゲ商会を県内随一の企業グループであるTSEグループに育てあげ、勇退後はその実積やコネクションをバックに県議会議員に転身した。


こうしてみると、塩浜さんは成功者を絵に描いたような経歴を持っている。


しかし、それは今の時点で振り返れば、だ。


鈴江ちゃんが取り寄せた資料のあちこちに書かれた、塩浜さんたちの「戦い」。

それをそばで見ていた瑞恵さんからすれば、気が気でなかったに違いない。


大型台風で県内の物流が麻痺した際「病院の救急車や自衛隊の車を止めるな!」と心配する周囲を一喝。

津田沼さんが車を整備し続け、塩浜さんが冠水した道をボートでドラム缶を運んだこと。


競合他社が「あんな道、車じゃ行けない」と断った奥地の工事現場。

「俺たちがやってやる」と豪語したツダシゲ二人で試作車に乗って強行突破。

泥を跳ね上げ、横転しかけながらも宣言どおりに燃料を届けたこと。


後に県内最大の取引先となる企業、常陸陸運との最初の商談。

津田沼さんは「トラックの性能は俺が保証する」、塩浜さんは「物流センターの燃料供給は俺が命を懸ける」と断言した。

そして、契約書も見ずに握手だけで数億円規模の取引を決めたこと……。


数々の武勇伝は、後から記録としてみるから痛快に思える。


常陸陸運に至っては、ツダシゲ商会が「TSEグループ」、常陸陸運が「ヒタチ・グローバル・ロジ」と名前を変えても主要取引先として関係が続いているのだ。


しかし、リアルタイムでことのなりいきを見ていた瑞恵さんからすれば、いつどうなるかわからない、爆弾のような二人だったはずだ。


議員の仕事は大変ではあるけど、ツダシゲ商会の時よりは全然楽、と塩浜さんは笑っていた。


それはそうだろう。

きっと、瑞恵さんもようやくホッとしたのではないか。


「百貨店の閉店前に、しげさんが瑞恵さんに『二人で百貨店に出かけよう』と約束したの。

私が何とかスケジュール調整してね。

二人が丸一日のんびりできるようにしたわ」


大野さんは二人を間近で見ていた一人だ。

二人の苦労を知っていたからこそ「二人だけの一日」をプレゼントしたかったのだろう。


突然、大野さんが押し黙ったので、俺は写真から顔を上げた。


からん、とグラスのアイスコーヒーの氷が、音を立てて崩れる。


「……でも、お出かけの日の朝……瑞恵さんは倒れたわ」


「えっ……」


大野さんはうつむいたまま、言葉を絞り出すように語る。


「過労が原因の心不全ですって。

……ずっと無理を重ねていたのね。

結局、彼女は一度もその口紅を引くことなく、そのまま……」


大野さんの言葉が、胸に重くのしかかる。


「あるとき、しげさんの決裁を取りに執務室に行ったら、何か聞こえるの。

覗いたら『すまない、すまない』って口紅が包まれた箱を抱きしめるように抱えていたしげさんが見えたわ。

……泣いていた。子供みたいに」


塩浜さんの抱える後悔の底知れなさに、俺は言葉を失った。


「瑞恵さんは、開業したばかりの、明日どうなるかもわからないしげさんの人生に、自分を丸ごと賭けたのよ。

もし、しげさんが倒れたら、自分が代わりに盾になる。

……それくらいの覚悟があったはずよ」


大野さんは、コーヒーの表面を見つめながら、ポツリとこぼした。


「私は、しげさんが成功して議員になってからの付き合いよ。

……もし私が瑞恵さんの立場だったら、いくら好きでも、若い頃のしげさんに自分を賭けるなんて絶対にできないと思った」


ストローでアイスコーヒーをかき混ぜる。


氷がカラカラと音を立てた。


「……だからね、しげさんと『再婚しなよ』って周りがどれだけ勧めても、私は言えなかった。

……あの二人の、血の(にじ)むような絆を、間近で見ていたんだもの」


そうか。


だから、塩浜さんはあんなに辛そうな顔で笑っていたのか。

あのスケッチブックの(いびつ)な線は、後悔の念だったのだ。


横丁で銀さんから教わった、大切なこと。


『お客さんが夢を見られるなら、本気で嘘をつけ』


俺が描くべきは、ただの記録じゃない。

塩浜さんの思い出を塗り替え、後悔を救済するための「質感の嘘」だ。


「……わかりました」


俺は、茶封筒と口紅の写真に手を置き、大野さんをしっかりと見据えた。


「塩浜さんへのサプライズですね。

……この色、必ず瑞恵さんに引いてみせます」


「ありがとう」


大野さんは、ホッとしたように美しい笑顔を見せた。

そして、ハンドバッグを持ち上げながら、ふと悪戯っぽく笑った。


「……このシャネルのラインナップ、頑張れば灯くんでも手が出せるものもあるわよ。

……横丁で一生懸命に案内役をしてた『彼女』に、買ってあげたら?」


「……へぇっ!?」


俺は心臓が飛び出そうになり、思わず変な声を出してしまった。


「な、なんで……!?」


「ふふっ。あんなに分かりやすく目で追っていれば、誰だって気づくわよ」


大野さんはクスクスと笑いながら、伝票を手にした。


「い、いやいや、そんなことは……!」


この人たちの前では、ますます下手なことはできない。

背筋に冷や汗を流しながら、俺は大野さんの背中を慌てて追いかけた。

【担当:大野喜美江(元県議会議員秘書/見守る者)】

閉店前の百貨店で、ようやく守られた数十年来の約束。

でも、瑞恵さんは一度もその口紅を引くことなく……逝ってしまった。

しげさんが泣きながら口紅の箱を抱きしめていた姿、私は忘れられないわ。

次回、第112話『魂の救済、あるいは盾となる覚悟』

瑞恵さんはね、しげさんの人生に……自分を丸ごと賭けたのよ。

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