第110話:ファミレスの密談、あるいは十五万円の覚悟
アトリエから少し歩いた先にある、国道沿いのファミリーレストラン。
ドリンクバーのグラスから水滴が落ちるテーブルを挟んで、俺と大野さんは向かい合っていた。
まともに大野さんと話すのは初めてだ。
「ごめんね、呼び止めちゃって」
「いえ……こちらこそ、期待に応えることができなくて、すみません」
元県議会議員秘書は、柔らかく笑って首を振る。
「そんなことないわ……これ、しげさんから」
大野さんは、膝の上のハンドバッグから、すっと無地の茶封筒を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
手渡された封筒は、妙な厚みがある。
「少ないけど、これで良い画材でも買いなさいって。
……私たち、期待しているのよ」
「……え!?」
中を少しだけ覗き見て、俺は思わず息を呑んだ。
一万円札の束。
ざっと見積もっても、十五万円はある。
高校生が手にするには、あまりにも大金すぎた。
「そ、そんな……!
いくらなんでも、こんな大金、受け取れません!」
大野さんは、俺が突き返そうとする手を、静かに、しかし有無を言わさぬ強さで制した。
「いえ、受け取ってちょうだい。私が怒られちゃうわ」
大野さんが肩をすくめる。
「アトリエで渡すと、日立先生の手前、色々と問題があるでしょ。
それに、しげさん本人が直接渡すのも、なんだか押し付けがましいしね」
茶封筒を持つ手が震える。
金額にも、塩浜さんの本気にも、だ。
「それに、親御さんには内緒にしておいてほしいの。
……彼のような立場の人間からお金を受け取ったと知れたら、まだうるさいことを言う大人は多いのよね」
大野さんは苦笑し、コーヒーを口に含んだ。
「これだけあれば、絵の具も、キャンバスも、筆だって……
プロが使うちゃんとしたものが買えるでしょ」
俺の目の奥を覗くような視線。
田辺先輩と典子先輩といい、やはり、長く付き合ってくると、カップルは似てくるのだろうか?
「……しげさんは本気なの。完成を楽しみにしているのよ。
……私も、ね」
その言葉の重みに、俺は封筒を持ったまま固まってしまった。
これはただの制作費じゃない。
塩浜さんの、そして大野さんの「魂の救済」を俺に託すという、俺自身が背負うことをためらうような、強い期待だ。
「それとね……私から、一つお願いがあるの」
大野さんは、再びハンドバッグから紙らしき物を取り出した。
取り出したのは、四つ折りにたたまれたカラープリントされた写真であった。
広げてみると、そこに映っていたのは、洗練されたガラスのケースに収められた、深紅の口紅だ。
「この口紅の色を、肖像画の瑞恵さんに引いてあげてほしいの」
「これって……
思い出話にあった、霞百貨店で瑞恵さんがおねだりしたっていう口紅ですか?」
俺が尋ねると、大野さんは静かに頷いた。
「ええ。これはシャネルの『トランテアン ル ルージュ』という最高級品。
一本二万円から三万円するの。
瑞恵さんが当時見たのは、これのご先祖みたいな口紅よ。」
「一本……二、三万……ですか」
塩浜さんの思い出話がよぎる。
『会社が小さかったときは、休みの日は霞百貨店に行ったんだ。
金がないから見るだけだ。
『いつか、この口紅を買ってね』っていたずらっぽく笑っていたよ』
これなのか。
俺は口紅の写真を食い入るように見た。
きっと、瑞恵さんは口紅そのものがほしかったのではない。
成功してこれを簡単に買えるくらいの塩浜さんが見たいと思っていたのではないだろうか。
今の塩浜さんを見れば、それは現実となったが、その後の話を聞いたことがない。
「……しげさんが、あの話をする時に口ごもっていた理由、知ってる?」
俺が首を振ると、大野さんは少しだけ目を伏せ、遠くを見るような眼差しになった。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
テーブルの上に滑らされた、茶封筒の重み。
そこには、十五万円という大金と、一枚の口紅の写真が入っていた。
シャネルの『トランテアン ル ルージュ』。
瑞恵さんがおねだりしたという、約束の色。
次回、第111話『届かなかった口紅、あるいは霞百貨店の落日』
しげさんがこの話をする時、どうして口ごもるのか……知ってる?




