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【情念の画家】地味な僕のフェロモンと筆ペンで、彼女たちの理性が限界突破する件  作者: 船橋ひろみ
第五章(最終章):未来キャンバスと、素顔の肖像画(ポートレート)

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第108話:完璧な失敗、あるいは塩浜のダメ出し

ガタッ。


「……これが五枚目です。

このうち二枚に絞ろうと思います」


俺はイーゼルを立てかける。

心臓が飛び出しそうに脈動している。


「デッサンの描き込みはバラバラですけど……

いかが……でしょうか?」


おそるおそる見ると、腕組みした塩浜さんからため息が漏れた。


田辺先輩と典子先輩にモデルをしてもらった数日後の日立先生のアトリエ。

いつもなら、塩浜さんから思い出話を聞くのだが、今日は塩浜さんに絵の進み具合の報告をすることとなった。

ちょこちょことデッサンを見せることはあっても、五枚をきちんと見せるのは初めてだ。


レッスン終わりの静かな空間。

イーゼルに立てかけられた五枚のデッサンが、アトリエの柔らかな照明に照らされていた。


「……ほう。なかなか良いじゃないか」


腕組みをして五枚の「叩かれ台」を眺めていた塩浜さんが、大きく頷いた。


高まった緊張がほどけていく。


まずは一つ山を越えた。


元県議会議員の隣では、元県議会議員秘書の大野さんが「ふふっ」と微笑ましそうに目元を和ませていた。

少し離れたところから見守る日立先生も、どこか誇らしげな表情を浮かべている。


「腕が上がったみたいだな、灯くん」


「ありがとうございます。この五枚から、塩浜さんのイメージに近いものを二枚に絞って、そこからキャンバスに描き起こそうと思ってます」


俺がそう告げると、塩浜さんは「寄って見ていいか?」とゼスチャーし、イーゼルに一歩ずつ近づいた。


「ワシのとりとめのない話から、よくぞここまで描き起こしたなぁ……」


老眼鏡の奥の瞳が、一枚一枚のデッサンを舐めるように、そして記憶の糸をたぐるように細められる。


カツ、カツ、カツっ……。


五枚を行きつ戻りつした依頼主の視線は、二つのデッサンでとまった。


五枚のなかでは描き込まれている二枚、「結露した窓の前に立つ姿」と「車の助手席で微笑む姿」にピタリと止まったのである。


どちらも典子先輩をモデルにして描き込んだ二枚で、写真で補えない部分は典子先輩の雰囲気が色濃く残る。


「……! なぁ、灯くん」


「……はい?」


俺を振り返って、老人が尋ねる。


「知り合いに、モデルを頼んだと言っていたな?」


塩浜さんの声のトーンが、一段低くなった。

俺の心臓が再び激しく脈動しはじめた。


「はい。……思い出に寄せていくのに、その時の雰囲気を掴むために、少しだけ……」


「……そうか。なるほどな」


塩浜さんは、デッサンの上にそっと指を這わせた。


「描き込まれているこの二枚……確かに、綺麗だ。

技術的にも申し分ない。

だが……何か違うんだ」


「え……!」


「言葉にするのが難しいが……

簡単に言えば、あの時の瑞恵は、こんな『恋する視線』でワシを見てはいなかったんだ」


塩浜さんは、苦笑交じりに息を吐いた。


俺の心臓が激しく動くが、肩の力は抜けていく。


「灯くん。この二枚のモデルをしてくれたのは、実に見事な『恋人たち』だろう?」


「はい……うらやましいくらい、仲良しの人たちです」


絞り出すような俺の声に、依頼主は深くうなずいた。


「だろうな……この絵の彼女は、男に守られ、ただ純粋に愛されていることを疑わない『お姫様』みたいな顔をしている」


「……!!」


やはり、塩浜さんだ。

あまりにも正確な指摘で、皮肉にも物事を見抜く尋常でない眼力を目の前で見せつけられた。


「だがな……

雨の借家で窓に字を書いた時も、ガタガタの月賦の車で一緒に走った時も……」


再び行きつ戻りつする塩浜さんは、五枚に浮かぶ瑞恵さんを愛おしそうに眺める。


「君に話した通り、ワシは泥沼で必死にもがいていた頃だ。

瑞恵もまた、ワシを助けようと必死だったんだ。

惜しい……違うんだ」

【担当:塩浜重三郎(ツダシゲ商会(TSEグループ)創業者/依頼主)】

灯くん、君の技術は申し分ない。

だが……あの時の瑞恵は、こんな「お姫様」のような視線ではなかった。

ワシらは泥沼でもがいていた。瑞恵もまた、ワシを助けようと必死だったんだ。

次回、第109話『戦友の条件、あるいは大野の視線』

瑞恵はな……もっと険しくて、頼もしい「戦友」の顔をしていたんだよ。

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