第107話:助手席のお姫様、あるいは瑞恵のやり手
どおりで塩浜さんが月賦、つまりローンの書類にハンコを押す手が震えたって言ってたワケだ。
「……んだば、慎一くんがそんなすごえ車さ運転してるってが……。
わぁ、夢見てるみてぇだ」
横丁で若奥さま役に入り込んでいた典子先輩が、憑依型役者のような馴染み方でパイプ椅子に座る。
興奮しているのか、思わず方言が漏れているのに気づいていない。
田辺先輩も、何千万という数字が強烈にイメージされているのか、さっきより緊張気味で表情が固い。
「あー、いいっすねー、そんな感じですよー」
たぶん、今の二人の表情は、塩浜さんたちのそれに近いはずだ。
この瞬間の質感と空気感を逃さないようにデッサンに描きこんでいく。
「そんな買い物できるなんて、その方、すごいですね……」
「その人、その当時は小さな会社の役員だって言ってました。
買ったクラウンを社用車にするとかしないとかで揉めたらしいです。
俺、よくわかりませんけど」
「典子ちゃん、詳しくは今度お話ししますけど、簡単に言えば会社の税金対策にするしないで揉めたってことです」
聞きたそうな顔の典子先輩に先回りして答える田辺先輩。
この呼吸は俺たちではまだ出せない。
『会社の税金対策だから、とツダシゲ商会の社用車にしよう』と勧める瑞恵さんと津田沼さんに対して、『津田沼の実績になるから自分が買うんだ』と言って聞かなかった塩浜さん。
後年、当時の帳簿を確認していたら、ちゃんと社用車として処理されていて、ひっくり返りそうになったそうだ。
塩浜さんに気づかれないように瑞恵さんと津田沼さんが手を回したらしい。
『あの時の瑞恵はな……
『月賦、大変ねぇ、頑張ろうね』なんて言っときながら、裏じゃあ津田沼と笑ってたんだろうな。
『うちの旦那は、ガンコだから』って』
俺にはよくわからなかったが、塩浜さんのプライドも守りながら、しっかり損をしないようにしていたのだろう。
その時いっしょに話を聞いていた大野さんが感心していたことを思うと、瑞恵さんはそうとう「やり手」だったに違いない。
「早めに……免許取りますね、典子ちゃん」
「ふふ、約束よ? 慎一くんの運転で、海に行きたいな」
「高級車じゃないと思いますけど……」
「わぁ、慎一くんの隣なら……なんだっていい」
照れる慎一先輩と、嬉しそうに身を乗り出す典子先輩。
先ほど俺に向けられていた、あの暗く背徳的な視線とは全く違う。
そこにあるのは、隣にいるこの不器用で誠実な田辺先輩に向けた、絶対的な信頼と、純粋な愛おしさだけだった。
二人の間には、誰にも入り込めない「指定席」のような、絶妙な距離感と確かな絆が完成していた。
横丁の駄菓子屋で、阿吽の呼吸で店を切り盛りしていた『若夫婦』の姿が、目の前の二人に重なる。
俺は確信に近い思いを抱き、画用紙に向かって一心不乱に鉛筆を走らせた。
……これだ。
これなんだ。
この空気感は、まだ付き合い始めたばかりの俺と陽菜じゃ、絶対に出せない。
深く、長く、お互いを思いやってきた恋人たちだけが持つ、満ち足りた笑顔。
男に守られ、愛されていることを疑わない、幸福な『お姫様』の顔。
俺は、この典子先輩の笑顔こそが、塩浜さんが見たいと願っている『ドライブデートの瑞恵さんの笑顔』の正解なのだと、この時はまだ、信じて疑わなかった。
「今日は本当にありがとうございました。
……おかげで、すごく良いデッサンが取れました」
薄暗い公民館の玄関口。
建物特有のコンクリートから伝わるひんやりした空気のなか、俺は二人に深く頭を下げた。
「こちらこそ、楽しかったわ。
出来上がり、楽しみにしてるわね」
「誉田くん、遅くまでお疲れ様。
……それじゃあ、僕たちはこれで」
仲睦まじく寄り添いながら、駅の方向へと歩いていく二人の後ろ姿を見送る。
典子先輩の腕が慎一先輩の腕に自然に絡み、慎一先輩もまんざらでもなさそうに歩幅を合わせている。
理想的な恋人たちだ。
俺の絵のモデルとして、これ以上ない「質感」を提供してくれた。
俺は高揚したまま会議室に戻り、片付けを急いだ。
イーゼルを折りたたみ、机の配置を元に戻す。
二人が残していった空気感を忘れないうちに、家に帰ってすぐデッサンの細部を調整しなければ。
ブーン、ブーン、ブーン。
ズボンのポケットでスマホが震えた。
画面を見ると、『着信:田辺慎一先輩』の文字。
忘れ物か? それとも何かのトラブルだろうか?
俺は慌てて通話ボタンをタップした。
「はい、誉田です。どうしました、田辺先輩?」
『……あ、誉田くん。先ほどはありがとう』
「いえ、こちらこそ……何か忘れ物ですか?」
『いえ、忘れ物じゃないんです。
……誉田くん、まだ公民館にいるかな?』
電話越しの慎一先輩の声は、先ほどまでの穏やかなトーンとは少し違い、どこか硬く、張り詰めているように聞こえた。
「ええ、まだ会議室の片付けをしていますけど……」
『そうか。……実は、誉田くんに少し、折り入って話したいことがあって。
……今から少しだけ、時間をくれないか?』
「……え? 良いですけど……」
『ありがとう。じゃ、すぐ戻るよ』
ブツッ、と通話が切れる。
ツー、ツーという無機質な電子音を聞きながら、俺はスマホを耳から離した。
「折り入って話したい?一体なんだろう……?」
胸の奥が、ざわりと波打つ感覚。
柊珈琲店で彼が俺に向けた、あの鋭い探りの視線。
そして、先ほどのデッサン中に典子先輩が俺の首筋に向けた、粘り気のある視線と、それを断ち切った彼のハッキリとした声。
俺は急いで残りの片付けを済ませると、荷物を抱え、彼が戻ってくるのを待つためにロビーへと向かった。
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
典子先輩の笑顔。それは、愛されていることを疑わない「お姫様」の顔だった。
完璧なデッサンが取れた……。俺はそう確信していた。
でも、駅へと向かう二人の背中を見送った後、俺のスマホが震える。
田辺先輩からの、張り詰めた声での着信。
次回、第108話『完璧な失敗、あるいは塩浜のダメ出し』
灯くん、描き込まれたこの二枚……何か、違うんだ。




