第106話:慎一の介入、あるいは月賦のクラウン
「典子ちゃん。少し肩の向きが不自然にみえます。
誉田くんが描きにくいんじゃないかな」
静かで、しかしハッキリとした声が割って入った。
田辺先輩だ。
彼はパイプ椅子に座ったまま、背筋を伸ばし、典子先輩を真っ直ぐに見つめていた。
その声にハッとしたように、典子先輩の顔からスッと「朱の湿度」が引いていく。
「あ……ご、ごめんなさい、慎一くん。
……こうかしら?」
慌てて体勢を直す典子先輩。
安堵した俺は小さく息を吐き出し、鉛筆を握り直した。
慎一先輩は何も言わなかったが、その眼鏡の奥の瞳は、俺と典子先輩の間に一瞬だけ発生した「粘り気のある糸」を、確かに断ち切っていた。
しばらく集中して鉛筆を走らせる。
ようやく塩浜さんに見せられそうなデッサンに仕上がった。
「よし……次は、少しシチュエーションを変えさせてください」
俺は一度手を止め、田辺先輩と会議室の長机を二つ並べて配置を変えた。
車の運転席と助手席に見立てたレイアウトだ。そこに、パイプ椅子を二つ並べる。
「あの……田辺先輩も、隣に座ってもらえませんか?」
「えっ? 典子ちゃんだけかと思ったら、僕まで……?」
突然の指名に、田辺先輩は目を丸くした。
「すみません、シチュエーションがシチュエーションなもので……。
運転席にいる男性に向かって、助手席で楽しそうにはしゃいでいる様子を描きたいんです」
塩浜さんが『月賦の車でガタガタ道を走り、きゃあきゃあはしゃいでいた』と語った、瑞恵さんの横顔。
それを引き出すには、典子先輩の隣に、彼女が本当に心を許している相手が必要だった。
「……なるほど。わかりました。
ただ、僕はまだ免許を持っていないので、運転の仕草が不自然にならないか心配ですが……」
「大丈夫です。ハンドルを握っているつもりで、前を向いていてくれれば」
慎一先輩が照れくさそうに運転席に見立てた椅子に座る。
その隣に、典子先輩が嬉しそうに腰を下ろした。
「……ああ、一緒に車に乗ったら、こんな風になるのね」
典子先輩は、隣に座る慎一先輩の横顔を見つめ、ふわりと花が咲いたような笑顔を見せた。
きっと、ドライブデートで助手席に乗った瑞恵さんもこういう笑顔だったはずだ。
『燃料屋がみすぼらしい車じゃいけないって、あいつは言った。
で、無理して買った月賦の車でドライブさ。
ガダガタ道を走ったら、きゃあきゃあはしゃいでた……
最高に綺麗だったよ』
塩浜さんが車を買ったのは、瑞恵さんが結露した窓に「ツダシゲ商会」と書いて笑った頃だそうだ。
会社は確かに売上を伸ばしているが、まだまだ不安定。
そこに津田沼さんがメーカーと交渉の末、高級車を取り扱う権利を得た。
しかし、高級車だけあって、ツダシゲ商会に買いに来る人はいない。
瑞恵さんは「この会社はこんな高級車に乗れる勢いがあるって見せましょう」と塩浜さんを焚きつけて、高級車の購入者第一号にしたのだ。
それは、津田沼さんの苦労に報いるだけでなく、自信と実積をプレゼントすることにもなる。
「……ちなみに誉田くん、僕らが乗ってる車って、どんな車をイメージしたら良いんです?」
自分のノートをハンドルに見立て、ポーズを取る田辺先輩が問いかける。
俺は、イーゼルからのぞき込むように答えた。
「確か、依頼者さんが言うには……クラウンだそうですよ。
あ、初代クラウンって言ってた」
ギョッとしながらこちらを振り向く田辺先輩。
想定外の車種が出てきたみたいだ。
「あの……依頼者ってどんな方なんですか?
差し支えない範囲で良いんですけど」
「あー、80歳くらいのおじいちゃんです。
絵画教室で仲良くしてもらってる人なんですよー」
「慎一くん、その車ってそんなにすごいの?」
不思議そうな顔で田辺先輩に問いかける典子先輩。
俺はあまり車に詳しくないので、高級車なんだ、位にしか思ってなかった。
「初代クラウンって、当時は超高級車ですよ?
今の感覚なら何千万ってする車です!」
「えぇぇぇっ!!」
【担当:田辺慎一(小見山高校購買部/典子の彼氏)】
典子ちゃんの瞳に宿った、一瞬の「揺らぎ」。
僕はそれを、静かに、けれど確実に断ち切る。
二人の間に流れる「粘り気」を払うように、僕は助手席に座る彼女の隣へ。
さあ誉田くん、僕たちの「ドライブデート」を描いてごらん。
次回、第107話『助手席のお姫様、あるいは瑞恵のやり手』
慎一くんの隣なら……私、なんだっていい。




