第105話:朱い湿度、あるいは首筋の痕跡
シュッ、シュッ。
鉛筆が画用紙の上を滑る乾いた音が、静かな会議室に響く。
塩浜さんの記憶にある『雨が降った時、結露した借家の窓に指でツダシゲ商会と書いて笑った瑞恵さん』の姿。
それを典子先輩のシルエットに重ね合わせていく。
『雨が降った時、結露した借家の窓に指で「ツダシゲ商会」と書いてな。
「いつかビルを建てようね」ってアイツは笑っていた。
……本気だったよ』
今のTSEグループの前身、『ツダシゲ商会』。
車を売る津田沼さんの自動車販売店と、油を売る塩浜さんの燃料店が合併してできた会社だ。
「あー、典子先輩、ちょっとこっちに視線をもらえますか?」
田辺先輩の声がけのおかげで、ホワイトボードに指を当てた典子先輩が、いつもの柔和な表情になっていくと、画用紙に描いた瑞恵さんの指先が「ツダシゲ商会」の文字を書き出した。
俺は鉛筆を走らせながら、塩浜さんが語った、ツダシゲ商会誕生の思い出をたどる。
塩浜さんと津田沼さんの運命的な出会い。
その当時、道のほとんどが未舗装だった。
ある田舎道で、津田沼さんが豪農に納車するトラックを泥に埋まらせて立ち往生していたそうだ。
そこを通りかかった塩浜さんが、自身の燃料運搬車で泥まみれになりながら牽引し、津田沼さんは無事に納車。
同行した格好になった塩浜さんも、その場で豪農が燃料を買い取ったそうだ。
「車があっても油がなきゃ動かん。油があっても車がなきゃ運べん」と豪農に言われた二人はもっともだと意気投合。
その日の夕方には会社設立の大枠がまとまっていたそうだ。
そして、ツダシゲの二人は文字通り泥を跳ね上げながら茨城の道を切り拓いていき、大きな飛躍を遂げる。
瑞恵さんが窓に文字を書いたのは、ちょうどこの頃だそうだ。
二人の快進撃を間近に見て、ビルが建つことを本気で信じ、それは現実となった。
「……ふふっ」
イーゼルから顔をずらしてモデルを見る。
同じように顔をずらした典子先輩と視線が絡まった。
いたずらっぽく微笑んだ先輩の顔が心なしか朱い。
小さく艶やかな吐息が漏れている。
「ああ、やっぱり……」
俺のつぶやきを不思議がる先輩に、首を振って「何でもない」とアピールしてイーゼルに視線を向ける。
やはり、俺が至近距離にいると、先輩はおかしくなる。
「ねぇ、誉田くん……」
「……はい?」
ポーズを取りながら、先輩が呼びかけてきた。
イーゼルから顔をずらす。
目が合った。
朱く染まった顔。
潤んだ瞳。
部屋の空気が微かに歪んだような気がした。
潤んだ視線がスライドする。
視線の先が、俺の顔から首筋に舐めるように移動し、べっとりと張り付いた。
そこは数日前、公園で陽菜に強く甘噛みされ、わずかに赤い痕が残ってしまっている場所だ。
モデルと俺の距離なら気付かれないと思っていたが、バレた。
この距離と蛍光灯の下では、彼女の目をごまかせなかったらしい。
「……それ、どうしたの?」
典子先輩の瞳が、いっそう蕩けた潤みを帯びていく。
その視線に、俺の背筋に冷たい汗が流れた。
陽菜との横丁デートした日のことを思い出す。
ラムネを買いに典子先輩と入った横丁のストックスペースで、それは起きた。
あの薄暗い四畳半の密室で、先輩は俺の首筋に顔を埋め、荒い吐息と共に唾液たっぷりのキスを落としたのである。
『幸せな奥さんだって、たまには違う私になってみたくなるの……』
湿った声で囁かれた記憶が蘇った。
あの時、ストックスペースの壁を一枚隔てた向こうには、田辺先輩がいたのだ。
あの時の彼は、駄菓子屋の若旦那役をこなしながら、小見山高校購買部のエースの実力を存分に発揮していた。
脳裏に蘇る、甘く熟した果実のような、典子先輩の匂い。
あの日の『朱い』情念が、彼女の目の中で再び灯ったのだろうか?
彼女の視線が俺の首筋の「陽菜の痕跡」を舐め回すたび、会議室の無機質な空気が、絡みつくような湿気を帯びていく。
「あ……これは、ちょっとひっかいてしまって……」
俺がモゴモゴと苦しい言い訳を言いかけた口にしようとしたその時だった。
【担当:風間典子(小見山高校購買部/慎一の彼女)】
部屋の空気が、少しずつ熱を帯びていく。
誉田くんの首筋に残る、陽菜ちゃんの「印」。
それを見つけた瞬間、私の奥底で何かがドロリと溶け出した。
幸せな奥さんだって、たまには違う「私」になってみたい……。
次回、第106話『慎一の介入、あるいは月賦のクラウン』
典子ちゃん、肩の向きが不自然だよ。……ね、誉田くん?




