第104話:ホワイトボードの窓、あるいは典子の戸惑い
「……こ、こんなポーズ取るの?誉田くん!?」
ホワイトボードの前に立たされた典子先輩は、戸惑ったように振り返った。
彼女には今、ホワイトボードを「冬の結露した窓ガラス」に見立ててもらい、そこに指で文字を書き込むような姿勢をとってもらっている。
「すみません。頼んできた知り合いが、日常の何気ない一部を絵にしてほしいって言うもので……」
俺は鉛筆を走らせながら、少し申し訳なさそうに答えた。
絵画教室のレッスンで使われている、公民館の小さな会議室。
俺は典子先輩をモデルにデッサン中なのであった。
飾り気の全くない会議室。
無機質な白い蛍光灯の光が、パイプ椅子や長机を冷たく照らしている。
瑞恵さんのモデルを典子先輩に頼むにあたり、田辺先輩に話を通してもらい、約束の日に、二人に公民館に来てもらった。
主役の典子先輩は戸惑いっぱなしだ。
何かのスタジオに呼ばれるかと思ったら、実際は地味な公民館の会議室だ。
写真館で取るようなポーズをイメージしていたら、実際はホワイトボードに向かってポーズを取れと言われる。
先輩たちの持っている一般的なイメージからしたら、戸惑うのも無理はない。
もともと、絵画教室で公民館の施設を使っていたので、机をずらしてしまえば、デッサンくらいならじゅうぶんに使えることを俺は知っていた。
なにより、スタジオを借りるより、利用料が断然安い。
「あ、先輩、すみませんけど、ちょっとそのまま……」
俺はイーゼルの位置を直し、再び画用紙に向かっていた。
典子先輩から消えない困惑の表情。
デッサンに取りかかる前に、二人には大まかな経緯と典子先輩にどんなポーズをとって欲しいか、ということを伝えてはいる。
しかし、この戸惑いの表情では、野心的な未来を描いていた当時の瑞恵さんを思い起こすのは難しい。
無理もないよな、と思う。
一般的な「肖像画のモデル」を頼まれたら、誰だって椅子に座ってすました顔で正面を向くポーズを想像するだろう。
しかし、塩浜さんが欲しいのは、すました顔の瑞恵さんではなく、日常の一場面から抜け出したような質感の瑞恵さんだ。
典子先輩からすれば、おすましモデルのつもりで来てみたら、俺からホワイトボードに指を這わせて、なんて指示を受けるのだ。
困惑して当然だろう。
そもそもモデル経験のない人に、どう言ったら納得してもらえるか。
考えながら鉛筆を走らせていたら、少し離れた場所に座っていた田辺先輩が、典子先輩に声をかける。
「日常の一部を切り取った肖像画って、有名な画家の作品にもあるそうですよ、典子ちゃん」
「え?……そうなの?」
「……フェルメールの『レースを編む女』や、ドガの『窓辺の女』とかが有名みたいですよ。
ね、誉田くん?」
俺は思わず田辺先輩を振り返る。
田辺先輩は、照れくさそうに俺にうなずき、デッサンを続けて欲しい、とゼスチャーした。
田辺先輩と美術について話した記憶はない。
しかし、ちょっとしたキーワードで作品名がパッと出てくるあたり、わざわざ美術の歴史や代表的な作品を勉強してきてくれたに違いない。
典子先輩の役に立とうとする、その生真面目な誠実さに頭が下がる。
「え? あ、はい。……そうなんです。
わりと一般的なことなので、ヘンなことではないんです」
感心したようにうなずく典子先輩。
彼女がうなずいたのは俺の言葉に、ではない。
田辺先輩の言葉に対して、だろう。
「そうなのかぁ。知らなかったなぁ……」
つぶやいた典子先輩の顔が徐々に晴れていく。
やはり、この二人の間には、二人でしか、いや、二人だからこそ出せる質感がある。
その一端を作品に落とし込むことができれば……。
「あ、典子先輩、いい感じです!
そのまま、そのままでお願いします……」
俺の言葉に、典子先輩は小さく笑い、再びホワイトボードに向き直った。
【担当:風間典子(小見山高校購買部/慎一の彼女)】
ホワイトボードに向かって、指を這わせる。
誉田くん、あなたの指示はいつも不思議ね。
最初は戸惑っていたけれど、慎一くんの声が聞こえるだけで、私の顔が自然と綻んでいく。
ああ、私……今、すごく「幸せな顔」をしてるかもしれない。
次回、第105話『朱い湿度、あるいは首筋の痕跡』
誉田くん、……その首の傷、どうしたの?




