第101話:隣にいる奇跡、あるいは積み上げた時間
テーブルに額が張り付く位頭を下げていると、後頭部に穏やかな声が降ってきた。
「……誉田くんの本気度は、よくわかりました。
典子ちゃんには僕から伝えておきます」
顔を上げると、にこやかな田辺先輩がいた。
「彼女も誉田くんの絵を高く評価しているみたいですし、きっと協力してもらえると思いますよ」
「あ、ありがとうございますっ!」
「まあ、彼女の返事をちゃんと聞くまで、約束はできませんけど……」
俺はテーブルに額をぶつけるような勢いで頭を下げると、苦笑した先輩は制服の内ポケットから使い込まれた革の手帳を取り出して、めくり始めた。
「うーん、ちょっと待ってくださいね……」
テーブル越しに見えたページには、小見山高校の購買部のスケジュールや、模試の日程と思われる書き込みが几帳面な字で記されていた。
横丁の駄菓子屋であの驚異的な売上を叩き出した、先輩の実務能力はこういうことの積み重ねで培われているのだろう。
難しい顔でページをめくっていた先輩が、パッと明るい表情に変わった。
手帳の向きを変えて、俺に見せながら、書き込まれていない場所を指し示す。
「たぶん、この日の夕方なら僕も典子ちゃんも都合が合うと思いますよ」
「ありがとうございます!来て頂けるんですね」
確定したと浮きたつ俺をたしなめる田辺先輩。
「誉田くん、典子ちゃんの返事はまだですから、お約束はできません。
断られた時のことも考えないとダメですよ」
「そ、そりゃそうですね。ハハハ……///」
手帳をパタンと閉じて、慣れた動作で内ポケットに収めた先輩は、ニコッと笑ってカバンからお財布を取り出した。
「今日か明日にはお返事できると思います。
……では、ちょっと待っててくださいね」
自分の注文分のお金を置き、立ち上がろうとした田辺先輩を、俺は思わず引き留めた。
「あ、あの……! もう一つ、相談があるんですけど」
「……? 何でしょう」
不思議そうに座り直す先輩に、俺はどう切り出すべきか迷った。
若き日の塩浜さんの隣に座る瑞恵さんは、いったいどんな気持ちで塩浜さんを見ていたのだろう。
長く寄り添う人の「眼差し」の正体を、俺は知りたい。
そして、俺自身が陽菜とこれから付き合っていく上で、大切なこと。
先を歩くこのカップルから何かを学びたかったのだ。
「……彼女と、長く付き合っていくコツって、何でしょう……?」
唐突すぎる質問に、慎一先輩は一瞬目を丸くしたが、やがて困ったように、しかしどこか嬉しそうにふっと笑った。
「そうですね……。色々とありますけど、強いて言うなら……」
彼は窓の外を行き交うモールの客たちを少し見つめ、それから俺に向き直った。
「当たり前が、当たり前じゃない……ことかな」
キョトンとする俺がよほどマヌケに見えたのか、先輩はフッと噴き出しながら言葉を続けた。
「……つまり、彼女が隣にいることと、彼女と過ごす時間は、決して当たり前ではない。
そのことを忘れないことでしょうか」
「……どういうことでしょう?」
【担当:誉田灯(情念の画家/高校生)】
「当たり前が、当たり前じゃない」。
田辺先輩の言葉は、幼なじみの陽菜と一緒にいる俺の胸に、重く響いた。
誠実に、ただひたすらに尽くし続ける愛情。
俺は、そんな「質感」を本当に描けるんだろうか。
次回、第102話『公園の和解、あるいは不死鳥の独占欲』
陽菜……俺、君を当たり前だなんて、もう思わない。




