第四話 切られた腱
四日目の夜、テオが逃げた。
仕立て屋の青年は、夜の見張りの隙を縫って、街道を外れて森に飛び込んだ。彼はピンを内袋に隠し持っていた。それで縄を断った。
広場からずっと、口にくわえたまま連れてこられた、一本のピン。獣人は誰もそれを武器だと思わなかった。
ニッサが彼を追った。
黒豹族の狩人が、人間の足で逃げる男を逃がせるはずがなかった。彼女は松明も持たずに闇に入った。落ち葉を踏む音はしない。獣人たちは追わなかった。追う必要がないことを知っていた。
十数分後、ニッサは森の中でテオを地面に押さえつけていた。
腐葉土の匂いがした。テオの頬に濡れた土と、去年の落ち葉が貼りついていた。彼の心臓の音が、地面を通して彼女の膝に伝わってきた。
テオは泣いていた。
「ぼくには、好きな人がいるんです」
彼は言った。
「あなたじゃない。ぼくはあなたを愛せない。ぼくはあいつのところに帰りたい。お願いです、見逃してください」
ニッサは彼の言葉を聞いていた。
聞いていた、と思う。
聞いた上で、彼女は腰の短刀を抜いた。
鞘走りの音は、ひどく短かった。
「逃げないで」と彼女は言った。獣国の言葉でたどたどしく、しかし正確に。
「逃げないで、ほしい」
テオの右足の踵の上、アキレス腱を、切った。
左も、切った。
音がした。
弦が切れるときの音に、少しだけ似ていた。
テオは悲鳴をあげなかった。声が出なかった。
ニッサは自分の上着を脱いで彼を包み、抱き上げた。
その体は、彼女が今まで担いだどんな獲物よりも軽かった。
彼女の頬にも、涙が伝っていた。
番への愛と、番を傷つけた手と、その両方を彼女は同時に持ってしまっていた。
野営地に戻ったテオを、アイリスが治療した。
湯を沸かさせ、松明を四本立てさせ、獣人たちを下がらせた。切断面は鋭かった。迷いのない刃だった。それが分かることが、アイリスには何より恐ろしかった。
糸を通す。腱の断端を寄せる。結ぶ。指先が滑るたび、テオの体温が、彼女の掌の中で下がっていくのが分かった。
夜明けまでかかった。腱は繋がった。だが、走ることはもうできない。
「歩けます」とアイリスはニッサに告げた。
「ですが彼の足は、もうあなたから逃げる足ではありません」
「それを ── あなたは愛と呼びますか」
ニッサは答えなかった。
テオの隣で、夜通し彼の手を握っていた。
テオはその手を振り払う体力さえ、もうなかった。




