第三話 道中、最初の死
獣国へ向かう街道の三日目、夜。
野営地の焚き火を囲んで、人間たちは黙って薄いスープを飲んでいた。塩と、名も知らぬ根菜と、脂の浮いた湯。獣人たちは離れた場所で肉を焼いていた。脂が炭に落ちて爆ぜる音が、絶え間なく続いていた。種族ごとに、食卓が分かれていた。
マリエルは、その夜、スープに口をつけなかった。
前の日も、その前の日も、彼女は半分残していた。アイリスはそれに気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。食欲の減退は連行された六人の全員に起きている。彼女の中では、それは記録すべき所見のひとつでしかなかった。
サラフが彼女の前に膝をついた。獅子族の将軍が、人間の女の前で膝をつくのは、獣国の歴史で前例のないことだった。
焚き火の向こうで、獣人たちの手が止まる。誰も笑わなかった。
「食え」
マリエルは首を横に振った。
彼女の手は鍋を洗い、薪を割り、子供の髪を梳いてきた手だった。指の節が太く、爪は短く切ってある。膝の上でその手が、握られては開かれ、また握られていた。
「子供たちは、もう私のスープを飲むんです」彼女は静かに言った。「上の子は今日、髪を結う日でした。下の子は熱を出しやすい子で、毛布を二枚かけてあげないといけない。私が居ないと、夫はそれを忘れる。だから ── 」
「お前の夫など知らぬ」サラフは唸った。「番は私だ」
「番ってなんですか」マリエルは、初めてサラフの目を見た。「私は母です」
火が、爆ぜた。
サラフは、何も言えなかった。
戦場で三十七人の将を討ってきた男が、鍋を洗う手をした女の一言に、動けなくなっていた。彼はやがて立ち上がり、闇のほうへ歩き去った。一度だけ振り返ったのを、アイリスは見ていた。
アイリスは、マリエルに声をかけようとして、やめた。
医師は患者の心には踏み込まない。それが職業上の礼儀だと、彼女は信じていた。
その夜、マリエルは焚き火の見張りに立つと言った。誰も疑わなかった。
朝、彼女は焚き火のそばで冷たくなっていた。
霜が下りていた。彼女の睫毛にも、白いものが乗っていた。手には、薬草を束ねたまま握り潰した塊。アイリスはそれを見て、すぐに分かった。毒薊。心臓を緩やかに止める。苦しまない。眠るように止まる。アイリスの薬箱から、彼女が黙って一束、抜いていた。
いつ抜いたのか、アイリスには思い出せなかった。
スープを配ったとき、この人は自分のすぐ隣に座っていた。あのとき、この人はもう決めていたのだ。
医師は患者の心には踏み込まない ── その判断が誤診だったことを、アイリスは翌朝、霜の上で知った。
サラフは咆哮した。獣の咆哮だった。森が震え、馬が暴れた。鳥が空を黒く埋めて逃げた。
アイリスはマリエルの瞼を、そっと閉じた。
指の下で、冷たくなった皮膚がわずかに抵抗した。
「彼女は母であることを最後まで貫きました」とサラフに向かって言った。
「あなたが見つけた番はもう居ません。あなたが連れていくのは、母の屍です」
サラフは膝から崩れ落ちた。
強い獣ほど、負けるということを知らない。




