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番を棄てて逃げた医師ですが、すべてを失った元・火竜王子が病院に運ばれてきました  作者: 鷹居鈴野


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第三十三話 名前を、ください

役所の窓口は、朝から混んでいた。


木の長椅子に、二人は並んで座った。

ヴェルは朝から落ち着かなかった。膝を揺すり、止め、また揺すった。

アイリスは、その膝を掌で押さえた。押さえられて、彼は止まった。


「緊張していますか」

「していません」

「膝が」

「膝は緊張しています。ぼくはしていません」


前の順番の老夫婦が振り返って、笑った。


   *


順番が来た。

書記官は、眼鏡の奥から二人を見比べた。


「苗字を決めなければなりません」

「ぼくには家がないので」

「先生 ── じゃなくて、アイリスさんの苗字に入れてもらえますか」


書記官は少し驚いた顔をした。

男が女の苗字に入るのは、この国では多くない。


「よろしいので」

「はい」

「奥様のお名前は変わりませんが。よろしいので」


ヴェルはきょとんとした。


「変える必要がありますか」

「いえ ── 一般には、そういうものかと」

「彼女は、彼女の名前で患者に覚えられています」とヴェルは言った。

「それを、ぼくの都合で書き換えるのは、おかしい」


書記官はペンを持ち直した。

アイリスは、長椅子の背に置いた手を静かに握りしめた。


この男は、彼女の名を書き換えないと言った。

かつて、彼女のすべてを自分のものに書き換えようとした男が。


   *


「フォッセルです」とアイリスは答えた。


「ヴェル・フォッセル」

「いい名です」

「人間の、ぼくの初めての家の名です」

「ありがとう」


書記官は、書類にペンを走らせた。

ペンが止まる、その間際、ヴェルが急に肩を震わせた。


「どうしました」とアイリスが心配して訊いた。

「いえ」とヴェルは首を振った。

「いま、不思議な夢の続きを見たような気がしました」

「夢?」

「よく覚えていません。ただ、誰かに、名を呼ばれたような。そんな気が、しただけです」

「変ですね」

「変です」


アイリスは息を止めた。


「だけど ── 」と彼は笑った。

「ぼくには、もうその名はいらない」

「ぼくは、ヴェル・フォッセルです。今日から、それでいい」


   *


アイリスは頷いた。

頷きながら、心の中で、その名を最後に一度、呼んだ。


ヴェルグリム。


あなたの番(つがい)で、いることはできなかった。

けれど、あなたの妻にはなれます。

番ではない、妻に。


ありがとう、ヴェルグリム。

あなたが人間になってくれて、ありがとう。


私が医師である限り、あなたの夢の中の傷を、毎晩私が診ます。

それが、私の新しい誓いです。


書記官がペンを置いた。

書類は、二人の苗字をもって完成した。


   *


役所を出ると、春の光がまぶしかった。


ヴェルは、書類の写しを両手で持っていた。

歩きながら、何度もそれを見た。何度見ても、同じことが書いてある。

それでも、見た。


「アイリス」

「はい」

「ぼくの名前が、ここに載ってる」

「載っています」

「紙に載ってる」

「載っています」


彼は立ち止まった。


「ぼく、生まれたみたいだ」


   *


アイリスは、彼の手からその紙をそっと取り上げた。


「風で飛びます」

「あ」

「私が持ちます。私は書類をなくしません」


彼女はそれを畳んで、白衣の内側にしまった。

それから、彼の手を取って、指を絡めた。


彼の第二関節が、彼女の指の間で、ほんの少し後ろへ反っている。


彼女はそれを、確かめるように握った。


「ヴェル」

「はい」

「今夜の紅茶は、私が淹れます」

「ぼくが淹れます」

「あなたは下手です」

「……知っています」


彼はしょんぼりした。

大きな体で、しょんぼりした。


「でも、練習します」と彼は言った。

「白衣も、練習したらできました」

「十七日、かかりましたが」


「では」とアイリスは言った。


「一生かけて、練習してください」


ヴェルは彼女の顔を見た。

それから、春の光の中で、ゆっくり笑った。


「一生」

「一生です」

「長いな」

「私の見立てでは、あと三十年か、四十年です」


「短いな」と彼は言った。


彼は自分がかつて、千年の命を持っていたことを知らない。

知らないまま、彼はその年月を短いと言った。


アイリスは、その手を強く握った。


   *


その夜、彼女は机の上の羊皮紙に、もう一行、書き足そうとした。

書き足そうとして、やめた。


観察日誌に、これ以上書くことはなかった。

症例は、一件で足りる。


かわりに、彼女は新しい紙を出した。

そして、一行目にこう書いた。


『番(つがい)解(ほど)きの薬 ── 一方的な愛は愛ではない、という医学的考察』


書き終えて、彼女はその題をしばらく眺めた。


この本を書き上げるのに十五年かかることを、この夜の彼女はまだ知らない。

その本が、獣国の番探しの宴を廃(や)めさせることも、まだ知らない。


窓の下で、水を汲む音がした。

それから、湯の沸く音。

それから、何かをこぼす音。


アイリスはインク壺の蓋を閉めた。

そして、笑いながら階段を降りていった。

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