第三十二話 検証
アイリスは自分の感情を信用していなかった。
三年前、彼女は「私はこの男を愛さない」と結論した。
それは誤診だった。
一度誤診をした診断者は、二度目の診断を疑わなければならない。
それが医師の作法だ。
いま、彼女は「私はこの男を愛している」と結論しかけている。
この結論も誤診かもしれない。
もっと悪い可能性がひとつある。
── 番の本能が、まだどこかに残っているのではないか。
彼の中に。あるいは、三年ものあいだ番として見られ続けたことで、私の中に。
もし、そうなら。
これは愛ではない。
これは、彼女が生涯かけて否定してきた、あの一方的な執着の残滓にすぎない。
だから、彼女は検証することにした。
*
三月かけて、彼女はこっそり調べた。
まず、血を採った。
「貧血の疑いがあります」と言った。彼は疑わずに腕を出した。彼は彼女の言うことを、いつも信じる。三年前と同じだ。
彼女はその血を、獣人の血に使う試薬にかけた。
獣人の血は、番の匂いに触れると沈む。試験管の底に、沈殿がおりる。
彼の血は沈まなかった。
どこまでも澄んだままだった。ただの人間の血だった。
次に、骨を測った。
「関節の可動域を記録させてください」と言った。彼は素直に手を開いた。
名残はあった。第二関節が、わずかに反る。それだけだ。
骨は残っていたが、骨の中身は空だった。
そして最後に、魂震草を嗅がせた。
獣人の番の本能を、根から揺さぶるあの草だ。
かつて彼が翼を焼いて、火口の縁から採ってきた草。
彼女がそれを何に使ったのかを、彼は知らないまま棄てた。
彼女は乾いた葉を掌に載せ、彼の鼻先に差し出した。
「これは」
「薬草です。匂いを嗅いでみてください」
ヴェルは素直に身を屈めて、嗅いだ。
「……草の匂いがします」
「それだけですか」
「それだけです」
「胸が締めつけられたり、頭が熱くなったりしませんか」
「しません」
彼は心配そうに彼女を見た。
「ぼく、どこか悪いんですか」
「いいえ」
「先生、顔が白いですよ」
「大丈夫です」
*
番の反応、ゼロ。
本能、ゼロ。
彼の中に、彼女を求めるように作られた仕掛けは、ひとつも残っていなかった。
鎖はない。命令もない。千年の血に刻まれた文字は、火山の底で全部焼けていた。
つまり。
この男は、何の力にも突き動かされずに彼女を好きになった。
運命でもなく。
魂の絆でもなく。
本能でもなく。
素で。
*
その夜、アイリスは鞄の底から、古い羊皮紙の束を出した。
王城前の広場で、馬車に乗せられる直前、荷物からこっそり一枚だけ抜き取った、あの羊皮紙だ。
怯えるかわりに、観察する。
それが、あのとき彼女が選んだ生存戦略だった。
三年ぶりに、彼女はそれを開いた。
最初の頁の、いちばん上に、連れ去られた日の自分の字があった。
まだ震えていない、まっすぐな字だった。
『番=一方的な執着。愛ではない』
その下に、症例が並んでいる。
マリエル。焚き火のそばで、毒薊を握って死んだ。
テオ。両足の腱を切られ、二度と走れない。
リアナ。婚約者に「ごめんなさい」とだけ言った。
エドリック。ヴォーラ。ミオ。
そして、彼女自身。
五年かけて、彼女は一度も反証を得なかった。
命題は正しかった。正しすぎた。
*
アイリスは羽根ペンを取った。
インクを含ませて、少し迷った。
医師は結論を書き換えない。
気に入らない結果を消したりしない。
医師は症例を追記する。
彼女は、最後の空白に一行、書き足した。
『反証例を、一件、確認した』
*
書いて、しばらくその一行を見ていた。
たった一件だ。
統計にはならない。学会では笑われる。症例報告としても弱い。
だが、命題を否定するには、反証は一件で足りる。
それが、科学というものの、いちばん美しい規則だった。
彼女は日付を入れた。
それから、署名をした。
アイリス・フォッセル。
三年ぶりに書く、本名の署名だった。
少し、手が震えた。字が、あのころより下手になっていた。
*
窓の外で、港の灯がいくつか消えた。
彼女は羊皮紙を閉じ、鞄の底には戻さなかった。
机の上に、開いたまま置いた。
明日から、この日誌は隠すものではない。
階下で、水を汲む音がした。
ヴェルが、洗濯場の水を汲んでいる音だった。
あの音を、と彼女は思った。
あの音を、私はこれから、毎晩聞くのだ。




