第三十一話 ぜんぶ、棄てて来てくれて、ありがとう
ある春の夕方、二人は教会の前を歩いていた。
海から風が上がってきて、教会の鐘が鳴らないまま微かに震えていた。
ヴェルは朝から様子がおかしかった。三度同じことを言い、二度道を間違えた。
教会の前で、彼が立ち止まった。
「アイリス」
「はい」
「ぼくには、過去も、家名もない」
「うん」
「お金も、地位も、力もない」
「うん」
「ぼくが君と分け合えるのは、ぼくの夜の夢だけだ」
「うん」
彼はそこで言葉に詰まった。
掌が汗で光っていた。作業着の膝を何度も握った。
「そんなぼくでも、君は ── 」
「ヴェル」と彼女は彼の唇に指を当てた。
*
彼女は彼の手を取った。
節の太い、大きな手だ。
掌には古い火傷の痕がある。彼が鉄瓶の取っ手があると思って、素手で握った夜の痕だ。
そして、指の関節。第二関節が、ほんの少しだけ後ろへ反っている。
火竜族の骨格の、名残。
彼が棄てられなかった、たったひとつのもの。
アイリスはその関節に口づけをした。
*
ヴェルの手が跳ねた。
引き抜こうとして、引き抜けなかった。彼女が放さなかったからだ。
医師の握りは強い。
「せ、先生」
「アイリスです」
「アイリス。あの。それは何ですか」
「診察です」
「診察じゃない」
「そうですね」と彼女は言った。「診察ではありません」
彼女はもう一度、その関節に唇をつけた。
今度は、長く。
「ここだけ」と彼女は言った。
「ここだけ、あなたが棄てそこねたところです」
*
ヴェルは自分の手を見た。
それから彼女を見た。
それから耳まで真っ赤になって、もう一度自分の手を見た。
意味は分からなかった。
彼は何ひとつ覚えていない。棄てたという記憶も、棄てられなかったという記憶も、彼の中にはない。
分からないのに、彼の心臓はめちゃくちゃに打っていた。
「アイリス」
「はい」
「ぼくの手が」
「はい」
「ぼくの手が、いますごく熱い」
「知っています」と彼女は言った。「触れているので」
彼は口を開けて、何も言えずにまた閉じた。
教会の前で、大きな男がゆでた蟹のようになっていた。
*
「ヴェル」
「はい」
「さっきの続きを言ってください」
「……忘れました」
「思い出してください」
「無理です。手が熱くて、なにも」
アイリスは笑った。
声を出して、笑った。
そして、笑いながらこう言った。
「では、私が言います」
彼女は彼の手を両手で包んだ。
「あなたは知らないでしょうけど」
「私は、過去にあらゆる地位と力と富を持っていた人を知っています」
「私はその人を嫌いになりました」
彼女は彼の指の関節を親指でそっと撫でた。
「あなたが何も持っていないことが、私にはいちばん安心できる条件です」
「ぜんぶ、棄てて来てくれて、ありがとう」
*
ヴェルは首を傾げた。
彼はその意味を半分も理解できなかった。
理解しないまま、彼は頷いた。
理解しないという幸福が、人間には許されている。
「よく分からないけど」と彼は言った。
「ぼくは、たぶんいま、いちばんいいことを言われた」
「ええ」
「泣いても、いいですか」
「どうぞ」
彼は泣いた。
その日の涙は、夢の涙ではなかった。
生まれて初めて、彼は目が覚めているときに泣いた。
アイリスは、彼の手を離さなかった。
指の関節の、その一点だけが、まだ竜だった。




