第三十話 先生、ぼくは、たぶん、病気です
外科に、若い医師がいた。
名を、ユアンといった。
王都の医学校を出て、二年前にベルナへ来た。背が高く、頭がよく、笑うと目尻が下がる。看護師たちに人気があった。
彼は、アイリスによく話しかけた。
症例の話だった。腸の縫合の話、麻酔薬の配合の話、王都の学会で誰が何を発表したかの話。
アイリスはそれに答えた。答えるのが、楽しかった。三年間、彼女は誰ともこの種の話をしていなかった。獣国の塔で、彼女の話を聞ける人間はひとりもいなかった。
廊下で、二人は長く話した。
アイリスは笑った。
*
その日、ヴェルは廊下の反対側の隅にいた。
モップを持って、床を拭いていた。
拭きながら、見ていた。
彼女が笑っていた。
彼女があの若い医師の言葉に、頷いていた。彼女があの男の書いた紙を、覗き込んでいた。二人の肩の距離が、彼女と彼の距離より近かった。
その夜、彼は寝台の上で、妙な胸の重さに気づいた。
痛い、というほどではなかった。
熱もない。ただ、胸骨のあたりに、小石をひとつ飲み込んだような、居心地の悪さがあった。
きっと、床を拭きすぎたのだ、と彼は思った。
翌朝には忘れていた。
*
半月ほど経って、また同じことがあった。
ユアンが医局の入口でアイリスに紙の束を渡し、彼女がそれを受け取りながら何か言って、彼が笑った。ただ、それだけの光景だった。
その夜、胸の重さが戻ってきた。
前より、少しだけ長く残った。
彼は自分の胸を押さえながら、考えた。
食あたりだろうか。夜勤明けの粥が、少し傷んでいた気がする。
次の日、彼は食事に気をつけた。塩気を控え、早く寝た。
それでも、三日後、同じ重さが来た。
ユアンが廊下でアイリスの肩に軽く触れて、何かを指さしたときだった。触れたのは、ほんの一瞬だった。
彼はその夜、自分の胸に手を当てて、長いこと動かなかった。
食あたりではない。
彼にはもう、それが分かっていた。分かっていたが、名前が分からなかった。
*
それから一月、彼はその重さと付き合った。
重さが来るたび、彼は理由を探した。
働きすぎだろうか。寒さのせいだろうか。古い傷が疼いているのだろうか。
彼は自分の胸を、患者の胸を診るように、順に検分した。心臓、肺、肋骨。どれにも、異常は見当たらなかった。
だが、彼は気づいていた。
重さが来るのは、いつも同じときだ。
彼女があの若い医師と話しているとき。彼女が、彼といないところで、笑っているとき。
彼はその符合を、自分の中だけにしまっておいた。
名前をつければ、それが本物になってしまう気がした。
*
ある日の午後、ヴェルは廊下の反対側の隅にいた。
モップを持って、床を拭いていた。
拭きながら、見ていた。
彼女が笑っていた。
彼女があの若い医師の言葉に、頷いていた。彼女があの男の書いた紙を、覗き込んでいた。二人の肩の距離が、彼女と彼の距離より近かった。
ヴェルは、モップの柄を握った。
握って、そのまま、動かなくなった。
*
彼は、自分の中を、探した。
何かが来るはずだった。
そういう気がした。腹の底のあたりから、熱いものが喉を通って上がってくる ── そういうものが、来るはずだった。
あの男を、廊下の壁に、叩きつけたくなる何かが。
来なかった。
彼の中には、そういう装置が、もうなかった。
爪も、火も、翼も、獣の血も、彼は持っていない。彼の中は、人間の中身だけで、きれいに空だった。
なのに。
胸が、痛い。
熱もない。息も切れていない。脈も、たぶん正常だ。
なのに、胸骨の裏側の拳ひとつぶんくらいの場所が、ずっと痛い。
一月かけて探しても分からなかった名前が、今日だけは、分かる気がした。
分かる気がして、それが、いちばん怖かった。
彼はモップを持ったまま、その痛みをしばらく調べていた。
どこかを打った覚えはない。刺された傷は、もう塞がっている。
食あたりでもない。
彼は深刻な顔で、結論した。
*
その夜、診察室の扉が叩かれた。
「どうぞ」
「先生」
ヴェルが入ってきた。
作業着のまま、両手を膝の横につけて、まっすぐに立った。
「先生。ぼくは、たぶん、病気です」
アイリスは書類から顔を上げた。
「どこが」
「胸です」
「痛みますか」
「痛みます」
「いつからですか」
「三月くらい前から。だんだん、ひどくなっています」
彼女は立ち上がった。
医師の顔になった。
心臓、肺、肋間神経 ── 頭の中で、鑑別の一覧が勝手に開いた。
「そこに座って。服を上げてください」
彼は座った。作業着の前を開いた。
彼女は聴診器を当てた。
規則正しい。強い。健康そのものの心音だった。
「熱は」
「ありません」
「息は、切れますか」
「切れません」
「食事は」
「食べています。先生が食べたら、ぼくも食べます」
彼女は聴診器を外した。
「痛むのは、どういうときですか」
「いつ、というのがあります」
彼は、まっすぐ彼女を見て、言った。
「あの人が、あなたと、話しているときだけです」
*
診察室が静かになった。
窓の外で、港の鐘が鳴った。
アイリスは聴診器を、机の上にそっと置いた。
彼女はその症状名を、知っていた。
「ヴェル」
「はい」
「それは、病気ではありません」
彼は、きょとんとした。
「では、なんですか」
「……」
「先生」
「診断がつきますか」
「つきます」
彼女は少し、目を伏せた。
「嫉妬、といいます」
*
ヴェルはその言葉を、口の中で何度か転がした。
「しっと」
「はい」
「それは、どういう病気ですか」
「病気ではありません。感情の、名前です」
「感情」
「自分の大事なものが、他の誰かのほうを向いているとき、人の胸は痛みます」
「それだけです。誰にでも起きます」
彼は、しばらく自分の胸に手を当てていた。
それから、深く息を吐いた。
「……これは、つらい」
彼は言った。
「先生。これは、とてもつらいです」
「はい」
「これを、みんな持っているんですか」
「持っています」
「みんな、平気なんですか」
「平気ではありません。ただ、慣れます」
ヴェルは、首を横に振った。
「慣れたくない」
*
それから、彼は長いこと黙った。
窓のほうを向いて、自分の掌を見ていた。
節の太い、大きな手。爪は、ただの人間の爪だ。
「先生」
「はい」
「ぼくは、いま、あの人を憎いとは思っていません」
「あの人は、いい人です。ぼくが廊下を拭いていると、ありがとう、と言う」
「なのに、胸が痛い」
「痛いだけで、ぼくは何もしない。できない。したくもない」
彼は掌を握った。
握って、開いた。
「でも、もし、ぼくに ── 」
そこで、彼は言葉を止めた。
止めて、少し、こわい顔をした。
「もし、ぼくに力があったら」
「もし、ぼくに爪とか、そういうものがあったら」
「ぼくは、この痛みを、あの人にぶつけていたかもしれない」
アイリスは、息を止めた。
「竜だったころの、ぼくは ── 」
彼はそこで、自分の言葉に驚いた顔をした。
「いや。ぼくは竜じゃないですね。変なことを言いました」
「でも、なんだか」
「昔のぼくは、たぶん、これを他人にぶつけていたんですね」
*
彼は、記憶を持っていない。
名も、顔も、塔も、砕いた壁も、彼は覚えていない。
覚えていないまま、彼は自分がしたことの本質に、自力でたどり着いた。
それは、痛みだった。
彼はそれを、他人に渡していた。渡せば、痛みが消えると思っていた。
消えなかった。だから彼は、壁を砕き続けた。
いま、彼はそれを渡す先を持たない。
だから、ただ抱えている。抱えて、胸が痛いと言いに、彼女のところへ来た。
竜だったころ、彼は嫉妬を行動としてしか持てなかった。
人間になった彼は、生まれて初めて嫉妬を、感情として味わっている。
*
アイリスは椅子から立ち上がった。
彼の前に立って、彼の頭に手を置いた。
「ヴェル」
「はい」
「あなたは、いま、とても正しいです」
彼は彼女を見上げた。
その目は、人間の茶色だった。溶けた金属の色は、もうどこにも残っていない。
「痛いのに、何もしない」
「それは、我慢といいます」
「我慢は、病気ではありません」
「我慢は ── 」
彼女はそこで、声が詰まった。
「我慢は、愛がすべき仕事です」
*
その夜、アイリスは自分の部屋で、頭を抱えた。
彼女は気づいてしまっていた。
診察室で、彼が「胸が痛い」と言ったとき ── 彼が真剣な顔で病気だと信じ込んで、深刻な顔で聴診器の下に座っていたとき ──
かわいい、と思ってしまった。
かわいい。
あの、壁を砕いた男を。
あの、彼女を檻に入れた男の同じ嫉妬を。
彼女は両手で顔を覆った。
私は、赦していない。
マリエルは戻らない。テオの足は戻らない。あれは、赦されることではない。私は、赦していない。赦してはならない。
そう、自分に言い聞かせながら。
同じ心臓で、彼女はあの男を、かわいいと思っていた。
矛盾している、と彼女は思った。
医師は、矛盾を抱えたままにしない。
どちらかが、誤りだからだ。
だがその夜、彼女はどちらも消せなかった。
*
診断がついた翌々日、試す機会がすぐに来た。
医局の廊下で、ユアンがアイリスの肩に手を置いて、こう言った。
「先生、来週の学会報告、僕の代わりに聞いてもらえませんか」
ただの、業務連絡だった。
手は、一秒もかからずに離れた。
ヴェルはその場にいた。モップを持って、床を拭いていた。
胸が、痛んだ。
彼はモップの柄を、強く握った。
握って ── それだけだった。
彼は壁のほうを見なかった。ユアンのほうも見なかった。
ただ、床の同じ場所を、必要以上に長く拭いた。
その夜、彼はまた診察室の扉を叩いた。
「先生」
「ヴェル。どうしました」
「今日、痛みました」
「そうですか」
「でも、何もしませんでした」
アイリスは、彼の顔を見た。
「えらいですね」
「えらい、というのとは、違う気がします」
「ただ、我慢しただけです」
「それが、えらいということです」
彼は、少し照れたような、それでいて納得のいかないような顔をした。
「先生」
「はい」
「これは、いつまで続きますか」
「分かりません」と彼女は正直に言った。
「一生かもしれません。人は、大事なものがある限り、これを何度も抱えます」
彼は、それを聞いて、少し考えた。
「それなら」と彼は言った。
「一生分、我慢します」
*
翌日、彼女はユアンに廊下で言った。
「先生。今度から、症例の話は、医局でしませんか」
「廊下だと、患者さんの耳に入ります」
ユアンは、少し寂しそうに笑って、頷いた。
賢い男だった。彼はたぶん、全部分かっていた。
胸の重さは、その日のうちには消えなかった。
痛みは、傷が塞がるのと同じ速さで引いていった。
急に消えるのではなく、日ごとに、ほんの少しずつ軽くなっていった。
十日ほど経ったころ、彼はふと気づいた。
廊下でユアンとアイリスがすれ違って挨拶を交わすのを見ても、胸のあたりが、もう痛まなかった。
彼はそのことを、彼女に報告に来た。
真剣な顔で、治りましたと言った。
アイリスは頷いて、こう答えた。
「よかったですね」
「主治医として、光栄です」




