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番を棄てて逃げた医師ですが、すべてを失った元・火竜王子が病院に運ばれてきました  作者: 鷹居鈴野


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第二十九話 番でなく、人として

二人は、ゆっくり付き合った。


ヴェルは急がなかった。

過去の彼がいかに急いだかを、彼は知らない。

だから彼は、何も急がなかった。


かつて彼は彼女を、塔の最上階に閉じ込めた。

絹を積み、宝石を積み、書架を運び、扉に鍵をかけた。

それが、彼の知っている愛のかたちだった。奪って、囲って、誰にも見せない。


いま、彼は彼女の白衣を洗っている。


   *


彼は糊(のり)のつけ方を知らなかった。


最初の一枚は、板のようになって返ってきた。

アイリスがそれを持ち上げると、袖が水平のまま、宙で止まった。畳もうとして、折れた。折れる音がした。


彼女は当直室で、声を上げて笑った。

三年ぶりの腹の底からの笑いだった。笑いすぎて、肋(あばら)が痛くなった。


笑いながら廊下に出ると、洗濯場の入口にヴェルが立っていた。

板になった白衣を両手で持って、途方に暮れた顔をしていた。


「……ぼくのせいです」

「知っています」

「先生。それは、着られますか」

「着られません。立ちます」

「立つ?」

「自分で立ちます、この白衣は」


彼はしばらく黙ってその白衣を見ていた。

それから、真剣な声でこう言った。


「練習します」


彼は本当に練習した。


洗濯場の女中頭に、頭を下げて教えを乞うた。糊の桶と水の桶を並べて、比を変えては、古い布で試した。彼の作った布切れが洗濯場の縄に、何十枚も干された。女中たちは面白がって、それを「ヴェルさんの実験」と呼んだ。


十七日目に、彼はちょうどいい一枚を作った。


その朝、当直室の扉に掛かっていた白衣は、糊が利きすぎず、利かなさすぎなかった。袖を通すと、肩のあたりでかすかに衣擦(きぬず)れの音がした。


アイリスはその音を聞いて、扉の前で少し立ち止まった。


彼女は知っていた。

かつてこの男は、人間王国の最上の絹を船で取り寄せて、彼女の前に積み上げた。

彼女は礼を言って、隅にきれいに並べた。それだけだった。


いま、彼女はこの一枚の白衣に袖を通すために、朝起きている。


   *


夜勤明けの朝、病院の裏口には、必ず彼がいた。


冬でも、いた。

彼女の当直は、日によって終わる時刻が違う。急患が入れば、朝の八時が十時になり、正午になる。

それでも、彼はいた。


ある朝、外へ出ると、彼の肩にうっすら雪が積もっていた。

髪にも、睫毛(まつげ)にも、乗っていた。


「ヴェル」

「おはようございます」

「……いつから、ここにいるんですか」

「覚えていません」

「寒くないんですか」


彼は、少し考えた。

本当に、真面目に考える顔だった。


「あなたが出てくるまで、寒いかどうか考えたことがない」


アイリスは裏口の段の上で、動けなくなった。


彼女は医師だ。低体温症の初期症状を、十四項目言える。

言えるのに口から出てきたのは、まるで別の言葉だった。


「……次からは、中で待ってください」

「はい」

「いいですね。中です」

「はい」


翌朝、彼はまた外で待っていた。


「ヴェル」

「中は、暖かいので」と彼は言った。

「暖かいと、眠ってしまいます。眠ると、あなたが出てくるのを見逃します」


   *


彼女の手が荒れていることに、彼女自身より先に気づいたのも、彼だった。


冬の消毒液は、皮膚を割る。

アイリスの指の関節には、細かい亀裂が入り、そこから血が滲(にじ)んでいた。彼女はそれを見ていなかった。手は道具だ。道具の傷なんて、後回しでいい。


ある夕方、彼が白い陶器の壺を机に置いた。


「なんですか、これは」

「軟膏です」

「私は医師です。軟膏は、薬局にいくらでも」

「知っています。でも、これは東通りの薬屋のです。羊の脂が入っていて、いちばん高いやつです」


アイリスは壺を見た。それから、自分の手を見た。

指の関節の亀裂を、まじまじと見た。


「……いつから、気づいていましたか」

「先週の水曜です」

「なぜ水曜だと分かるんですか」

「あなたが診察記録を書くとき、指を、こう庇(かば)って持っていたから」


彼は羽根ペンを持つ真似をした。

その持ち方は彼女の癖を、正確に写していた。


医師は、患者を見る。

この男は、医師を見ていた。


彼女は壺の蓋を開けようとして、開けられなかった。指が痛くて、力が入らなかった。

ヴェルがその壺を、そっと取った。蓋を開けた。

そして彼は、自分の指に軟膏を取り、彼女の手を掌の上に載せた。


彼の掌は、熱かった。獣人だったころと、同じ熱さだ。

いや、と彼女は思った。獣人ではない。この熱は、ただのこの男の熱だ。


彼は彼女の指の亀裂を、一本ずつ塗った。

力の加減が、驚くほどうまかった。布を裂いた男の手が、そこだけ羽のように動いた。


「痛くないですか」

「痛くないです」

「痛かったら、言ってください」

「言います」


言わなかった。

痛くはなかった。ただ、目のほうが勝手に熱くなった。


   *


彼女は、食事を摂らない女だった。


昔からだ。集中すると、忘れる。塔にいたころもそうだった。あのころのヴェルグリムは、彼女が食べないと、皿を壁に投げつけた。「食え」と怒鳴った。城中の者が震えた。彼女は食べなかった。


いまの彼は、怒鳴らない。


彼は夜勤の彼女のもとへ、片手鍋ごと麦粥(むぎがゆ)を運んでくる。

鍋つかみを使わない。

それを見た日、彼女は悲鳴を上げそうになった。


「熱くないんですか」

「熱いです」

「持たないでください」

「じゃあ、先生の粥が冷めます」


彼は机の隅を片づけ、鍋を置き、匙(さじ)を添える。

そして、こう言う。


「食べて」


それだけだ。

理由も、説教も、脅しもない。彼女が書類から目を上げなければ、彼は待つ。十分でも、二十分でも、廊下に立って待つ。そして、もう一度扉から顔を出して言う。


「食べて」


何度でも言う。

何度でも、同じ声で言う。


三度目に彼が言ったとき、アイリスは羽根ペンを置いた。

置いて、匙を取った。


粥は、少し塩が強かった。

彼は料理も、下手だった。


   *


一度、彼女は当直室の長椅子で眠ってしまったことがある。


四十時間、起きていた。

目を覚ましたとき、身体の上に、毛布が二枚かかっていた。


そして彼が長椅子のそばの床に、膝をついていた。

手を、彼女の髪のほうへ、伸ばしかけて ── 止めていた。


指が髪の二寸ほど手前で、止まっている。

彼はその手をしばらくそこに置いた。それから、握って、下ろした。


アイリスは目を開けなかった。

薄目のまま、それを見ていた。


彼は、触れなかった。


触れる資格があるのかどうか、自分に分からなかったからだ。

彼は彼女の許しを、まだもらっていない。もらっていないものを、彼は取らない。


かつてこの男は、檻の格子を掴んで、彼女に叫んだ。

「私を見ろ」と言った。「お前の目に、私を入れろ」と言った。


いま、同じ男が眠っている女の髪に触れられずに、床に膝をついている。


彼が立ち上がって出ていったあと、アイリスは長椅子の上で、毛布を頭からかぶった。

かぶって、しばらく出てこなかった。


   *


ひどく疲れて帰った夜だった。

十二歳の子供を、助けられなかった。血が間に合わなかった。彼女は縫うだけ縫って、白衣を血で汚したまま、当直室に戻った。


椅子に座って、動けなくなっていると、扉が開いた。


ヴェルが湯気の立つカップを両手で持って、立っていた。


「淹れました」


彼女は、それを見た。


紅茶は、濁っていた。

茶葉が浮いていた。湯の温度が、明らかに高すぎた。

渋みが、部屋の入口まで匂ってきた。


この男は、竜だったころも紅茶を淹れるのが、下手だった。

鉄瓶の取っ手が、あると思って、素手で握った男だ。掌にその痕が、いまも残っている。


三年経って、記憶を失って、竜であることをやめて。

それでも、この男はまだ紅茶を淹れるのが、下手だった。


「……ヴェル」

「はい」

「これ、渋いです」

「知っています。さっき、味見をしました。ひどい味です」


彼は、真剣な顔で言った。


「でも、あなたがこれを飲むと、少しまっすぐ座るので」

「持ってきました」


アイリスはカップを受け取った。

両手で包んだ。掌が、熱かった。


ひと口飲んだ。

渋くて、熱くて、ひどい味だった。


彼女はそれを、飲み干した。


顔をしかめて、飲み干した。

かつて彼が、彼女の淹れた茶を毎晩そうやって飲み干したのと、同じように。


彼は、なぜそんなに嬉しいのか分からないまま、空のカップを受け取って、洗いに行った。


彼女は、彼の背中が廊下の角を曲がるまで、待った。

それから、机に突っ伏して白衣の袖を噛んで、泣いた。


   *


夜、彼は夢を見る。


誰かを傷つけた夢だ。

朝、彼の頬は、いつも濡れている。


「ヴェル」

ある夜、彼の頬の涙を指で拭(ぬぐ)って、アイリスは言った。

「あなたが夢で傷つけている人は、もうあなたを許しています」

「そうかな」

「医師の診断です」

「先生の診断なら、信じます」


彼は彼女の手に、自分の手を重ねた。


彼の手の骨格は、たしかに人間でないわずかな名残(なごり)を持っていた。

彼女はそれを、もう隠さなかった。

彼女はその骨を知っていた。

彼女はその骨を、愛していた。


彼の知らないところで、彼女は彼のすべての過去ごと、彼をもう一度、愛し直していた。

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