第二十八話 私の名は、アイリスといいます
紅茶店の夜から、七日が過ぎた。
その七日を、アイリスはほとんど眠らずに過ごした。
医師の頭で、順序を組み立てていた。何を、どの順で告げるか。手術の手順と同じだ。切る順を間違えれば、患者は死ぬ。
八日目の夜、彼女はヴェルを、病院の裏庭に呼び出した。
冬の裏庭には、枯れた薬草畑と木の長椅子が一つあるきりだ。
彼女は長椅子に座り、彼に隣に座るように言った。
「先生。寒くないですか」
「寒いです」
「じゃあ、中で ── 」
「いいえ」と彼女は言った。「ここでなければ、言えません」
彼は座った。膝の上に、大きな手を置いて。
「これから、私の話をします」とアイリスは言った。
「終わるまで、何も言わないでください」
「終わったら、あなたは私を、憎んでいい」
*
彼女は、話した。
自分はロゼ・ファルマンではないこと。
本名はアイリス・フォッセルということ。
三年前まで、王立中央病院の魔術医だったこと。
獣国の番探しの宴で連れ去られ、火竜の王子の塔に一年半囚われていたこと。
道中で、母親がひとり自分から死んだこと。
仕立て屋の青年が、両足の腱を切られたこと。
その傷を縫ったのが、自分だったこと。
塔の中で、獣人の血と毛と爪を集めたこと。
薬を作ったこと。
「番解きの薬、といいます」と、彼女は言った。
「獣人の本能の鎖を、断つ薬です。私が作りました。世界にひとりしか作れません」
ヴェルは黙って聞いていた。
言われた通り、何も言わなかった。
「私は、その薬を、その男の紅茶に落としました」
風が吹いた。枯れた薬草が鳴った。
「その男は、私の淹れた茶を信じて、飲み干しました」
「その男は、私の言うことをいつも信じました」
「私は、それを利用しました」
彼女は、はじめて、彼のほうを見た。
「私は、あなたに薬を盛りました」
「あなたの記憶を消したのは、私です」
*
正確ではない、と彼女は知っていた。
記憶を棄てたのは、彼自身の契約だ。彼女が盛った薬は、番の鎖を三月断っただけである。
だがそこを言い訳にすることを、彼女は自分に許さなかった。
私が逃げなければ、彼は火山の底へ降りなかった。
始まりは、私だ。
医師は自分の切った場所を、正確に記録する。
*
ヴェルは、長いこと動かなかった。
それから、彼は泣いた。
声も上げず、顔も歪めず、ただ目から水が出た。
朝、目覚めたときと、同じ泣き方だった。
「……なんで、ぼくは泣いてるんだろう」と彼は言った。
「先生の話は、ぼくの話じゃない」
「ぼくは、獣国も竜も知らない」
「なのに、体が勝手に泣いてる」
アイリスは彼の頬に手を伸ばさなかった。
伸ばす資格が、この夜の自分にはない。
「憎んでください」と彼女は言った。
「それが、当たり前です」
「先生」とヴェルは言った。
「まだ、聞いていません」
「本当の名前です」
「教えてください」
アイリスは息を吸った。
三年ぶりに、その音を自分の口から出す。
「私の名は、アイリスといいます」
*
ヴェルはその名を、口の中で転がした。
「ヴェル」という名を、初めてもらったときと同じように。
そして、彼は首を傾げた。
「アイリス」
「はい」
「変だな」
「何がですか」
彼は自分の胸のあたりを掌で押さえた。
どこが痛むのかを、探すような手つきだった。
「知らないのに」
「なぜか、その名前を聞いたことがある気がする」
アイリスは長椅子の上で、両手で顔を覆った。
彼はその理由を知らない。
知らないまま、彼女の隣に座っていた。
寒い、とも言わずに。
そして彼女が泣きやむまで、動かなかった。




