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番を棄てて逃げた医師ですが、すべてを失った元・火竜王子が病院に運ばれてきました  作者: 鷹居鈴野


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第二十七話 もう一度、出会う

ヴェルは退院した。


彼は宿屋を辞めて、病院の雑役夫として雇われた。

強い力と、まじめな働きぶりで、彼はすぐに信頼された。


彼は毎朝、病院の玄関を掃いた。

毎晩、薬のガラス瓶を磨いた。

医師の白衣を、洗濯した。


洗濯場は病院の裏手にある。石の桶が三つ並んでいて、冬は湯気で天井が見えない。

彼はそこで腕を肘まで濡らして白衣を洗った。血と膿(うみ)と薬の染みを、爪を立てずに落とす。彼の手は力が強すぎて、最初のころ布を裂いた。だから彼は、力の抜き方を一から覚えた。


アイリスの白衣も、彼の洗濯桶に混じっていた。


彼はそれを、知らずに洗っていた。

彼の手で、彼がかつて独占したかった女の白衣が毎日洗われた。

彼はただ、ていねいに洗った。

誰のものか知らなかったから、ていねいに洗った。


それが、彼の生まれ変わった誠実さだった。


半年が過ぎた。


   *


ある夕方、診察を終えたアイリスは勇気を出して、ヴェルを夕食に誘った。


勇気という言葉を、彼女は自分に対して使うのが嫌いだった。

勇気なんて、非科学的だ。だがその日、廊下でモップを絞る彼の背中を見たとき、心臓が跳ね、口が乾き、手のひらに汗がにじんだ。理由は分かる。全部、体の反応だ。

分かっていても、足は動かなかった。


三十一年生きてきて、彼女はこの日、自分の体の言うことを無視することにした。


「お疲れ様、ヴェルさん」

「お疲れ様です、先生」

「もしご都合がよければ ── 街の東通りに新しくできた紅茶のお店を、ご一緒しませんか」

「紅茶」

「ええ。あなたが紅茶のカップを見ると、目が離せなくなると、前におっしゃっていたから」

「覚えていてくれたんですか」

「医師なので。患者さんの習癖は、覚える性分です」


ヴェルは子供のように嬉しそうに笑った。

そして、頷いた。


   *


紅茶店は、東通りの角にあった。

硝子(ガラス)窓が曇っていて、外から見ると、店の中がまるごと湯気の中にあるように見えた。


二人は窓際の席に座った。

アイリスは黒い茶葉を頼んだ。人間の国の、いちばん苦い葉だった。


湯気の立つカップを、彼女が彼の前に置いた。


ヴェルは、それをしばらく見ていた。

それから、カップを両手で包んだ。掌の指の付け根のあたりに、古い火傷(やけど)の痕(あと)がうすく残っている。

その痕の由来を、彼は知らない。


ひと口飲んで、彼は顔をしかめた。


「苦い」

「そうです」

「なぜこんなものを、毎日飲むんですか」

「苦いからです」


ヴェルは意味の分からない言葉を聞いた顔をした。

それから、もうひと口飲んだ。まだ顔をしかめた。

そして、飲み干した。


アイリスは自分のカップに、口をつけられなかった。


ヴェルが、目を上げた。

そして、言った。


「先生」

「はい」

「ぼくは、なぜか、いま初めて家に帰ってきたような気がしています」

「変ですね」

「変です」

「すみません、変なことばかり言って」

「いいえ」とアイリスは答えた。「変なことばかり言うのが、人間です」


   *


その夜、アイリスは自分の部屋の灯を落とさずに、長いこと座っていた。


檻のことを、考えていた。


塔の最上階の檻は、絹と宝石と医療器具でいっぱいだった。あれは彼が与えた檻だ。

だがあの檻を出たあと、彼女は三年名を変えて生きた。誰にも近づかず、誰にも近づかせず、夜間救急の当直ばかりを引き受け、振り返らない医師と呼ばれてきた。


それは、誰が与えた檻でもない。

自分で建てて、自分で鍵をかけた檻だった。


彼女は立ち上がり、窓を開けた。

冬の海の匂いが、部屋に入ってきた。


檻の扉を、彼女は自分の手で開けた。

外から誰かに開けてもらうのを、彼女は待たなかった。

そういう女ではなかった。


明日、彼の隣に座ろう、と彼女は思った。

番(つがい)としてではなく。医師としてでもなく。

ひとりの女として。

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