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番を棄てて逃げた医師ですが、すべてを失った元・火竜王子が病院に運ばれてきました  作者: 鷹居鈴野


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第二十六話 名のない男

ヴェルは宿屋に戻れなかった。傷は深かった。

病院に併設された療養棟で、一月(ひとつき)の安静が必要だった。


療養棟は本館より寒い。

石造りの廊下に朝いちばんの湯桶の湯気が立って、すぐに消える。消毒液の匂いがその湯気と混ざって、冬の匂いになる。

ヴェルの寝台はいちばん奥の窓際だった。港が見えた。


アイリスは毎日彼を診た。

朝の回診と夜の回診。一日に二度。

本当は、夜の回診は必要なかった。


彼はよく質問した。


「先生はご結婚は」

「していません」

「お独りで寂しくありませんか」

「寂しいと感じる時間がありません」

「お忙しいですか」


アイリスは彼の腹の包帯を巻き直しながら、少し考えた。

包帯の下の傷は、思いのほか早く塞がっていた。もともと丈夫な躰(からだ)らしい、とアイリスは診た。


「忙しい、というより ── 私には過去に非常に煩(うるさ)い男がいまして」

「そんな男、いたんですか」

「ええ」

「どんな人」

「私の朝食を毎日決めたがり、私の本を毎日選びたがり、私が他の男と話すのを嫌がる男でした」

「うわ、最低ですね」

「ええ、最低です」

「先生、よく別れられましたね」

「ええ、頑張りました」


ヴェルは笑った。

腹に響いたらしく、笑って痛がって、また笑った。


「その人、いまどうしてるんですか」

「さあ」とアイリスは答えた。「たぶん、まっとうに暮らしています」

「まっとうに」

「ええ。まっとうに」

「もったいないな」とヴェルは言った。

「もったいない?」

「だって、先生を怒らせて失ったんでしょう。ぼくなら、そんな馬鹿はしません」


アイリスは包帯を留める手を止めなかった。

止めなかったが、留め金の位置がいつもより一寸(いっすん)ずれた。


「……先生。その男のどこが、いちばん嫌でしたか」

「訊きますか」

「訊きます。ぼくは、暇なので」


彼女は少し笑った。それから、真面目な声で言った。


「私を愛していると言ったところです」

「え」

「愛していると言えば、何をしてもいいと、その人は思っていました」


ヴェルはしばらく黙った。

窓の外で、鴎(かもめ)が鳴いた。


「それは」と彼は言った。「たしかに、最低だ」


アイリスは頷いた。


彼は自分の話を自分のこととして笑い、そして怒っていた。

世界で二人だけが、この会話の意味を知らないふりをしていた。いや、知らないのは彼のほうだけだった。


それでも彼は、もうその男ではない。


「ヴェルさんはご結婚は」

「ぼくは過去がないので、結婚したかどうかも分かりません」

「指輪の跡はないですね」

「ですね。たぶん、独身です」

「お好きな女性は」

「いま、目の前に」


アイリスの聴診器を握る手が、止まった。


「すみません、変な事を」とヴェルは慌てて言った。

「先生は、ぼくの命の恩人です。たぶん、それを好きだと勘違いしています」

「お気を悪くなさらないでください」


「気にしていません」とアイリスは答えた。


答えながら、彼女の心臓は医師として許されない速さで打っていた。

聴診器を自分の胸に当てるわけにはいかない。当てれば、診断がついてしまう。


彼女は聴診器を外し、白衣のポケットにしまった。

療養棟の窓の向こうで、冬の海がゆっくり光っていた。

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