第二十五話 知らない男の顔をした、知っている匂い
患者は三日後に目を覚ました。
「お名前は」とアイリスは尋ねた。
「分かりません」と男は答えた。
「三年前、海岸で目覚めた、と宿の人は言うのですが ── それより前をぼくは覚えていない」
「お住まいは」
「港の南の、宿屋の屋根裏」
「ご家族は」
「いない、と思います」
「ご職業は」
「宿の下働き」
問診は、五分で終わった。
答えるべき過去を、この男は何ひとつ持っていなかった。
アイリスは彼の脈を取った。
消毒液の匂いのする指で、手首の内側に触れる。血の巡りは強い。人間の男として、異様なほど強い。
そこで、彼女の指が止まった。
彼の手は節が太かった。爪は人間のもの。だが関節の形が、わずかに人間と違っていた。第二関節が、ほんの少しだけ後ろへ反る。普通の医師なら気づかない。獣人を一年半、診続けた医師にしか見えない差だった。
火竜族の骨格の名残。
記憶を失っても、骨は残る。
アイリスの頭の中で、医師としての診断と、女としての確信が同時に走った。
これは、ヴェルグリムだ。
だが、ヴェルグリムでは、ない。
彼女は脈を数え終えたふりをして、手を離した。
離した自分の手が震えていた。患者から見えない角度で震えていた。医師は、そういう震え方を覚える。
「お名前をお決めになる、お気持ちはありますか」と彼女は訊いた。
「役所で、便宜上の名前を登録できます」
「ぼくに名前はいらない、と思っていました」
「いらないと、生きるのに不便です」
「ですね」
男はしばらく考えてから、言った。
「先生に、決めてもらえませんか」
「え」
「先生の声を聞いた瞬間、ぼくはぼくに名前が必要なんだと、初めて思いました」
「だから、先生に名前をもらいたい」
アイリスはしばらく、何も言えなかった。
「考えさせてください」と、彼女は言った。
男は頷いた。頷いて、また眠った。
眠るとき、彼の眉は、少し寄っていた。
*
その夜、当直室の灯を落とさずに、アイリスは机の前に座っていた。
窓の外は冬だった。港から風が上がってきて、硝子を鳴らしていた。
彼女は三年前の記憶を、順に並べていった。医師が症例を並べるときの手つきで。
竜の塔の最上階の檻に、書架があった。
禁書庫から運ばせたものだ。彼女が「読みたい」と言えば、ヴェルグリムは何でも運んできた。彼は彼女に何ひとつ与えられなかったから、与えられるものだけは、全部与えた。
その書架に、一冊、古い竜語の書があった。
長老の祠の写しだった。
『竜性譲渡ノ契約』
魔力、鱗、爪、火、長命、そして竜の記憶。
それらを祠に差し出した竜は、人間の躰を得る。
差し出したものは、戻らない。名も戻らない。相手を知ったという記憶も、戻らない。
ただし、と、その古文書には書かれていた。
魂の核に刻まれたものだけは、削れない。
アイリスは、その頁の余白に、羽根ペンで自分の字で、こう書き込んでいた。
『馬鹿げている。確かめようもない。竜が竜であることをやめる理由なんて、あるはずがない』
彼女はその字を、いまはっきり思い出すことができた。
インクの掠れまで、思い出すことができた。
動機は、存在した。
*
アイリスは机に肘をつき、両手で顔を覆った。
計算をしてしまった。医師だから、計算をしてしまう。
千年の命が、六十年になった。差し引き、九百四十年。
喉の火が、消えた。
鱗が剥がれた。空を飛ぶ翼が、なくなった。
名が消えた。
私を知っていた、という事実が、消えた。
それだけを支払って、彼が得たものを、彼女は数えた。
ひとつしか、なかった。
── 彼女に、番としてではなく、人間として、もう一度出会う権利。
それだけだ。
その一行のために、彼は自分の全部を、火山の底に置いてきた。
そして、契約には、残るものが、ひとつだけあった。
魂の核に刻まれたものは、削れない。
彼が彼女を傷つけた、という後悔だけは、削れない。
彼は、それを知っていて、頷いたのだ。
つまり、あの男は ── 毎朝、頬を濡らして目を覚ますあの男は ── 自分が誰を傷つけたのかも思い出せないまま、傷つけたという痛みだけを、生涯抱いて生きることを承知で選んだ。
そこまで理解したとき、アイリスは椅子から、床に、崩れ落ちた。
声は出さなかった。
夜勤の病棟で、医師が声を上げるわけにはいかない。
彼女は当直室の床に膝をつき、白衣の袖を口に押しつけて、肩だけで泣いた。
長い時間だった。
*
泣きやんだあと、彼女は床に座ったまま、天井を見ていた。
医師として、彼女はその夜、初めて誤診を認めた。
私は、彼を愛さない、と思っていた。
それは、誤診だった。
私は、彼を愛していたのかもしれない。
だが、と彼女は自分をすぐに正した。
正さなければならなかった。ここを間違えると、すべてが嘘になる。
私が彼を拒んだのは、彼の本能と、私の自由が両立しなかったからではない。
私が彼を拒んだのは、彼が加害者だったからだ。
マリエルは戻らない。焚き火のそばで、毒薊を握って冷たくなった母は、戻らない。
テオの足は戻らない。あの青年は、もう走れない。
リアナの婚約者は、唇を噛み切ったまま、群衆の中に立ち尽くしていた。
彼が償えないものは、償えないままである。
彼が全部を棄てても、それは償われない。
私は、それを忘れない。忘れたら、私は医師ではない。
それでも、とアイリスは思った。
彼は、二度と、誰かをそうやって奪えない体になった。
爪も、火も、王の名も棄てて。
奪う力を、自分の手で、根こそぎ抜いて。
それは、償いではない。
償いではないが、この世でいちばん高い、詫び状だった。
*
朝、彼女は彼の病室に戻った。
窓から冬の光が入っていた。男はもう起きていて、寝台の上で自分の手を不思議そうに眺めていた。
「お名前、決めました」
「はい」
「『ヴェル』では、いかがですか」
「ヴェル」
男はその音を、口の中で何度か転がした。
「いい、響きです」
「気に入りました」
「先生、ありがとうございます」
彼は笑った。
昔、塔の最上階で、苦い紅茶を飲み干したときと、同じ笑顔だった。
笑顔は、骨格と同じで、棄てられないものだった。




