第二十四話 病院の扉
ベルナ市営病院。夜間救急外来。
アイリスは三年前に王立中央病院を辞めていた。獣国を逃れたあと、彼女は王都を避けた。王都には貴族にも王にも繋がる紐が多すぎた。
彼女は北の港町ベルナまで下り、市営病院の夜勤の口を見つけた。給金は王都の三分の一だった。誰も経歴を訊かなかった。
名は変えていた。
「ロゼ・ファルマン医師」と名乗っていた。
番解きの薬は、三月しか保たない。
彼女はそれを、誰よりも正確に知っていた。作ったのは彼女だ。
だから最初の三月、彼女は毎晩窓の外の空を見ていた。
四月目からは、見なくなった。
一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎた。空には、何も来なかった。
なぜ来ないのか、アイリスには分からなかった。
薬が想定より長く効いたのか。彼が死んだのか。あるいは、飽きたのか。
どれも、あり得ない話ではなかった。彼女は三つの可能性を思い浮かべては、どれも確かめようがないまま、日々を過ごした。
一番あり得ないと思って、考えないようにしていた四つ目の可能性を、彼女は一度だけ、夜勤明けの寝台の上で考えたことがある。
──追える状態に戻って、なお追わないことを、あの男が選んだ。
そんなことができる男ではなかった。
そう結論して、彼女は眠った。
*
その夜、アイリスは当直だった。
冬の海風が窓を鳴らしていた。担架が運び込まれ、宿の女将らしい女が何か叫んでいて、看護師が止血布を押さえていた。よくある夜だった。港町の冬には、刃物の傷が増える。
「脇腹、刺創。意識、混濁」
アイリスは布をめくった。傷を見た。深さを測り、角度を見て、内臓に達しているかどうかを指の腹で確かめた。
肝臓を逸れている。
血の量から、ぎりぎり間に合う、と判断した。
「縫います。器具を」
彼女は手を洗った。石鹸を三度。爪の間まで。十年、一度も省略したことのない手順だった。
水は冷たかった。この病院の湯は、夜になると出ない。彼女はそのことに、もう文句を言わなくなっていた。
振り返り、メスを握った。
握った瞬間の感触を、彼女はよく覚えている。柄が、いつもより重かった。あとになって彼女は、それは気のせいだったと結論する。あの夜、重かったのはメスではない。
そして、患者の顔を見た。
*
知らない男だった。
暗い茶色の髪。垢と潮で汚れた頬。無精髭。港町のどこにでもいる、日雇いの男の顔だった。角はない。鱗もない。深紅の髪でもない。
知らない男だ。彼女はそう確認した。確認して、次の作業へ移ろうとした。
移れなかった。
呼吸が、止まっていた。
彼女は数秒、息をしていなかった。医師として、それは異常事態だった。異常事態には対処法がある。息を吸えばいい。彼女は息を吸おうとして、失敗した。
音が、消えた。
看護師の声。女将の泣き声。窓を叩く風。器具の触れ合う音。そのすべてが、水の中に沈むように遠のいた。残ったのは、自分の心臓の音だけだった。それが、ひどく速かった。
なぜだ。
知らない男だ。私はこの男を知らない。顔の骨格が違う。眉の位置が違う。背丈が違う。声も聞いていない。私の記憶にあるどの男とも、この男は一致しない。
医学的に、一致しない。
彼女の視線は、患者の顔から、ゆっくりとその手へ落ちた。
担架の縁から、右手が垂れていた。
節の太い、荒れた、労働者の手だった。爪は人間の爪だった。短く、割れていた。
指の第二関節が、わずかに後ろへ反っていた。
*
普通の医師は気づかない。
人間の指は、そちらへは反らない。それが、この男は ── 反る。ごくわずかに。骨格の名残だけが、まだそこにあった。
アイリスは、その手を見ていた。
頭は、まだ否定していた。骨格の個体差だ、と頭は言った。労働で関節が肥厚しただけだ、と頭は言った。頭は必死に、医学の言葉を並べ続けた。
体は、とっくに分かっていた。
心臓が、先に知っていた。呼吸が、先に知っていた。彼女の骨が、この男の骨を知っていた。
理屈は、いつも、いちばん遅れて到着する。
彼女は三十年生きてきて、初めてメスを落とした。
金属が床に当たる音が、やけに長く、響いた。
*
その音で、患者が、目を開けた。
焦点の合わない瞳が、天井をさまよい、それから、彼女の顔の上で、止まった。
茶色い目だった。
どこにでもある、人間の、茶色い目だった。
彼は、彼女を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、口を動かした。声が出なかった。もう一度動かした。
「あなたが誰なのか分からないのに ── ぼくは、あなたを傷つけた気がする」
「ごめん、なさい」
そして、彼はまた気を失った。
*
アイリスは、動かなかった。
三秒。あるいは、五秒。
その病院で、その夜、誰も彼女を急かさなかった。誰も、その数秒が何であるかを知らなかった。
彼女は、床にかがんだ。
落ちたメスを、拾った。
「新しいものを」と彼女は言った。声は、ほとんど揺れていなかった。
替えのメスを受け取り、彼女は彼を縫った。
一針目。糸が引かれ、皮膚が寄る。
二針目。彼の体温が、手袋越しに伝わってくる。人間の体温だった。獣人の、あの高すぎる熱ではない。
三針目。
縫いながら、彼女はずっと泣いていた。
涙は顎から落ち、彼女の腕を伝い、清潔な布の上に、点々と染みを作った。手は、正確に動き続けた。針の運びは一度も乱れなかった。医師の手というものは、そういうふうにできている。泣いている本人を、置き去りにして、仕事を終わらせる。
あなたは、来なかった。
三月で薬は切れたはずなのに、あなたは、来なかった。
来なかったのではない。
来られない体に、なって、来たのだ。
看護師が、心配そうに、彼女を見ていた。
彼女は振り向いて、言った。
「大丈夫です。集中しています」
看護師は、信じた。
ロゼ・ファルマン医師は、いつも最後まで振り返らない医師として、知られていた。




