# 第二十四話 番でなく、人として
二人は、ゆっくり、付き合った。
ヴェルは、急がなかった。
過去の彼が、いかに急いだかを、彼は、知らない。
だから、彼は、何も、急がなかった。
彼は、毎朝、彼女の白衣を、洗い、毎晩、彼女の、夕食を、運んだ。
彼は、彼女の朝食の献立を、決めなかった。
彼女が、何を読んでいるかも、訊かなかった。
彼女が、他の男性医師と、笑って話しているのを、見ても、嫉妬しなかった。
嫉妬の、感覚を、彼は、もう、持っていなかった。
代わりに、彼は、夜、夢を、見た。
誰かを、傷つけた、夢。
朝、彼の頬は、いつも、濡れていた。
「ヴェル」
ある夜、彼の頬の涙を、指で、拭って、アイリスは、言った。
「あなたが、夢で、傷つけている人は、もう、あなたを、許しています」
「そうかな」
「医師の、診断です」
「先生の、診断なら、信じます」
彼は、彼女の手に、自分の手を、重ねた。
彼の手の、骨格は、たしかに、人間で、ない、わずかな名残を、持っていた。
彼女は、それを、もう、隠さなかった。
彼女は、その骨を、知っていた。
彼女は、その骨を、愛していた。
彼の、知らないところで、彼女は、彼の、すべての過去ごと、彼を、もう一度、愛し直していた。
ある春の、夕方、二人は、教会の前を、歩いていた。
ヴェルが、立ち止まった。
「アイリス」
「はい」
「ぼくは、過去が、ないので、君に、家を、約束、できない」
「うん」
「お金も、地位も、力も、ない」
「うん」
「ぼくが、君に、あげられるのは、ぼくの、夜の夢、だけ、だ」
「うん」
「そんなぼくでも、君は ── 」
「ヴェル」と、彼女は、彼の唇に、指を、当てた。
「あなたは、知らないでしょうけど」
「あなたは、過去に、あらゆる地位と、力と、富を、持っていた人を、知っています」
「私は、その人を、嫌いに、なりました」
「あなたが、何も、持っていないことが、私には、いちばん、安心できる、条件です」
「ぜんぶ、棄てて来てくれて、ありがとう」
ヴェルは、首を、傾げた。
彼は、その意味を、半分も、理解、できなかった。
理解しないまま、彼は、頷いた。
理解しない、という幸福が、人間には、許されている。




